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17°FIAT FESTA 2010 - 1 尾瀬トレッキ...

2010/07/29 02:07:17

「FIAT FESTAへ行きましょう」

Barchetta仲間からのお誘いがあり、HPをチェックすると、
今年は、みなかみ町にある宝台樹スキー場での開催とのこと。

せっかく群馬まで行くのだから、近くに何か・・・

調べてみたら、尾瀬があったので行ってみることにしました。

誘ってくださった皆さんとは、イベント当日に現地集合することに。

さて、尾瀬・・・
この時期、水芭蕉が見られることが分かって、ますます楽しみ。

ポスターなどでよく見る木道の写真のイメージから、
気軽なハイキング、たとえば、
Plitviceのハイキングコースみたいなものかな
http://4travel.jp/traveler/penelope/album/10316452/

なんて、気楽に考えながら、ガイドブックを2冊※手に入れ調べてみると、
どうやら、本格的な登山の装備が必要なようです。

トレッキングは初挑戦。
なぜか持ってた腐りかけのScarpaのトレッキングシューズを
丸洗いクリーニングに出し、KarrimorのザックやAIGLEの山スカート、
The North Faceのキャップ、そしてワコールのCW-Xなど、
何やかやと揃えたら、出発!

当日は、早朝に出発したいので、尾瀬まで車で30分くらいの場所にある、
花咲温泉で前泊します。

お世話になるのは、ペンションオウレット。
オーナーが山岳ガイドであることと、
「一人旅を応援します」という言葉がとっても嬉しかったので、
すぐに予約をしました。

着いてみると、

「今日は、Penelopeさんおひとりで貸し切りです。どんどんわがまま言ってくださいね」

一人旅を応援してくださる宿を一人で貸し切りとは、なんて贅沢。
オーナーご夫妻には、とてもあたたく迎えていただきました。

今回、初めてのトレッキングということで、
前述の装備のほか、持ち物にも細心の注意を払っていました。

といったって、詰めの甘い私のこと、何か絶対忘れている気がする

と思ったら、ほら、やっぱり!

大切なレインウエアを玄関先に置いてくるという
痛恨のミス!

チェックアウト時、オーナーから尾瀬の歩き方のアドバイスを受け、
実は、レインウエアを忘れたことを話すと、
途中のコンビニにレインウエアがあると教えていただきました。

最悪、透明カッパでもないよりは良いと行ってみると、
さすがは、尾瀬のコンビニです。
ちゃんと上下セパレートのレインウエアがありました。



あれ?そもそも私は何をしに群馬に行くのだったかしら?


※山と渓谷社 尾瀬ブック
 るるぶ 尾瀬

☆歩いたルート
鳩待峠ー山の鼻ー牛首分岐ー竜宮ーヨッピ橋ー東電小屋
ーヨッピ橋ー拠水林ー牛首分岐ー山の鼻ー鳩待峠

スイス女ひとり旅26日間:旅の概要...

2010/07/27 10:07:21

■旅のキッカケ
 子供の頃からの憧れの実現
 休職中で時間がとれるチャンスは滅多にないと思い決行!

■情報収集
 スイス個人旅行の経験がある友人複数に相談
 Web検索、ガイドブックは地球の歩き方

■計画
■■何を観たいか、何をしたいか-
 第1優先.自然に浸る
  -花や動物、ハイキング、トレッキングなど
 第2優先.風光明媚な列車に乗る
  -氷河急行、ベルニア急行、ゴールドパスライン
 第3優先.古い町並みを見に行く
  -ベルン、ルチェルン、エンガディン

 "2頭追うものは1頭を得ず"
 目的を絞り、優先順位を決めて旅の組み立てをした。
  
■■制約を考える
(1)女である
 人がいない場所には極力行かない、
 周囲に人があることを常とする。
 夕方までには宿に戻る。
 安易に人に頼らない(気軽にヒッチハイクなどしない)。

(2)ひとり旅である
 山を一人で歩かない!
 と、スイスのハイキングガイドにも書いてある。
 とは言え、これを真面目に守っていては
 さすがに何も出来ない!
 また実際に、欧米人は女性も山をひとりで歩いてる
 (日本人女性は見かけなかった)。
  と言う訳で、自分なりに、落とし所を考えた。

 実際に病気になったら、何かあったら、
 ひとりでは山の上ではどうにもならない!
 と言うことを十分肝に銘じた上で、以下方針とした。

 ・ある程度メジャーなコースを選ぶ。
 ・実力の7割以下で歩けるコース、日程とする。
 ・何かあったら周りにヘルプが依頼できる環境であることを
  確認しながら歩く。

(3)英語はともかく、独伊仏語はまったくできない><
 確かに、英語だけではどうにもならない場所・場面はあった。
 それにクレーム言いたい場面などは、
 話せるに越したことはない訳だけど、
 喉元過ぎれば・・何とかなったが感想。

 外国から日本を訪ねてくる観光客だって、
 挨拶できれば"日本語お上手ね!"
 なんて褒められちゃったりする訳で、
 言葉は心、気持ちあれば何とか通じる。
 制約としては極めて小さいものに分類されると思う。

 当たり前のことではあるが、知識でカバーできる。
 前もって十分調べておけば、紙や単語を示すだけで
 後は自分の知識と繋ぐだけで良い。何とでもなる。

■■大きく決めておいたこと
 (1)拠点となる場所
 (2)拠点毎の滞在日数
 (3)宿の確保

個人的には、1ヶ月以内&滞在型の旅行を考えているのであれば、
リスク管理の面でも、日本で宿を確保、
お金の払込までしてから出発したいと考える。
 
お金の払込を日本でしておくことで
余計な現金を極力持つことがさけられる。

■■小さく、しかし柔軟にしておいたこと
 (1)その日の予定
  とは言え、その日になってガイドブック見たり、
  現地の人に聞いたりではさすがに時間がかかり過ぎ!

  なので、ある程度、選択肢を用意して、
  天候、体調、状況に応じて柔軟に選択・変更
  できるようにしておく。

【例】
  丸1日時間が取れる時は◎◎、半日なら□□
  雨なら○○、晴れなら××、はっきりしないなら△△
  体調万全なら☆☆、時差抜けず体調イマイチなら**

  また、ハイキングの場合、
  例え晴れていても天候が急変する場合がある。

  雨が降ったら◎◎まで引き返しゴンドラで下山など、
  常にコースより安全にフェードアウト出来るルート・方法は
  頭に入れておきたい。

 ※「自由」であるということ、実は、
   大きな努力(下調べ)によって成るものなのですよね^^;

■荷物
 旅行鞄は既にたくさん?持っていたが
 どれも帯に短し襷に長しで気に入らない。

 結局、石畳でも快適に転がすことが可能な
 リモアのスーツケースを新調

 1、2泊用に登山用デイパック、
 これも既に持っていたにもかかわらず結局新調してしまった。

 どうもモノには拘りが強いようです・・・^^;
 何れも愛用品となっている。

■洗濯
 4,5日程度を持って、あとは洗濯して過ごす。
 ランドリーを利用するつもりだったが
 結局、全て手洗いで済ませてしまった。

■衣類
 高度3000mまで及ぶ山歩きを考えると
 オールシーズン対応可能の服装が必要。

 防寒具として、
 軽くて暖かなカシミアセーター
 毛糸で編んだヒップスカート、レッグウォーマー、
 マフラーが着脱便利で重宝。

 折角なので山用品を買い足したかったが
 当時、ユーロ170円台!で出来なかった…orz

■移動手段
 列車、バス
 ※路線によってバスは席確保が難しい為、要事前予約
 
■旅ルート
 Tokyo-Zurich(1)-Murren(5*)-Chamonx(4)-Zermatt(5)-Saas Fee(3*)-St.Mortz(3)-Lugano(1)-Luzern(3*)-Tokyo

 *うち一泊は山岳ホテル
 
■記憶に残る思い出
 やはり山が好き♪
 百花爛漫、花咲く山を歩いたいこと
 朝焼けを観たこと
 マッターホルン登頂起点となるヘルンり小屋まで行ったこと

■所持金
 現金、クレジットカード、キャッシング可能な銀行カード
 
■持ち物
 1週間程度の旅支度と殆ど変わらない。
 55Lサイズのスーツケース3分の2程度
 
■日本に残す家族への連絡
 携帯電話よりメール、公衆電話より電話

「赤毛のアン」プリンスエドワード島...

2010/07/16 05:07:37

往復エアカナダを利用。
成田発AC002⇒トロント⇒乗り換え・Dゲート( 101~112 )トロント発AC8866(季節限定・10月上旬まで運行)⇒シャーロットタウン着⇒(ロッドロイヤリティイン・2泊)

シャーロットタウン発AC1105(季節限定・10月上旬まで運行)⇒トロント⇒(送迎車)⇒ナイアガラ着(マリオット・フォールズビュー3泊)⇒(送迎車)⇒トロント発AC001⇒成田着

目的地を2都市周遊にした。「赤毛のアンのP.E.I」と「ナイアガラ」に決め、シャーロットタウン、トロントの便を調べ、 PEXの e_チケットをゲット。現地の旅行会社とメールでやり取りし、ホテルと送迎を予約した。あれこれ調べ計画を立てるのがとても楽しい。
せっかちな性格なので、出発一ヶ月前には、トランクに詰め、手荷物まで全て準備が整う。はやる気持ちを少しでも抑えるように、ウキウキ気分で家の中を大掃除する。 前回(冬のナイアガラ)同様に上の姉が同行。今回は下の姉を誘い、予定を進めていたのだが、急に都合が悪くなりキャンセルに。代わりに上の姉が行くことになった。上の姉は『人生、棚から、ぼた餅よ。』と大喜び!前回以上に姉妹の絆を深める楽しい旅となった。(姪が作った、リカちゃん「赤毛のアン」バージョンも同行し、行く先々でポーズを取った。)

成田の南ウイングで待ち合わせし、いざトロントへ。
トロントで乗り換え。「トロントTerminal 1・Dゲート( 101~112 )を目指す」

入国審査⇒到着便のターンテーブルで荷物を取る⇒税関申告係が待つ場所で申告書の提出⇒航空券を見せてスーツケースを預ける⇒途中、案内モニターでAC8866便のゲート番号を確認⇒手荷物チェック⇒ Terminal 1「Dゲート」到着。
「Dゲート」は駅の待合室のよう。50人乗りのエア・カナダJazz が数機待機していた。搭乗カウンターを確認し、近くの椅子で待つ。数十分後、いつのまにかカウンターが変わっていた。予定時間を過ぎても、変更アナンスは無く、日本のようなしつこいアナンスはもちろん無し。搭乗時のアナンスもあっさりしたもの。物足りなさを感じながら、雨の中を小型機まで小走り。濡れたタラップで滑らないように慎重に搭乗。遅れていたせいか、乗り込んですぐに小型機は出発した。

ホテル「ロッドロイヤリティイン」に着いたのは夜中の零時過ぎ。部屋の窓を覗くと、庭ではなく、目の前にテーブルセッティングがされていた。てっきり朝食はそこでするのかと思っていた。朝になり、再び覗くと窓の前はホールになっていて、結婚式の用意が始まっていた。カーテンを開けたら丸見えになるので、閉めたまま着がえをし、そっとホールに入り写真を撮った。

・・・赤毛のアン一日観光・・・
キャベンディッシュビーチ、グリーンゲイブルズハウス、恋人たちの小径、お化けの森、モンゴメリーのお墓、グリーンケーブルス郵便局、キャベンディッシュ教会、モンゴメリーの生家、フレンチリバーの漁村、グリーンゲーブルス博物館、輝く湖水、ケンジントン駅跡。
念願の「アンの家」と「赤い土」を見られて感激!一台のバンで他の個人旅行の方と相乗り。ガイドさんが、他の大型観光バスと、かち合わないように調整してくれたので、ゆっくり見学できた。
お昼はPreserve Ccompanyでロブスターとジャガイモ料理を食べ、パンには店の名物ジャムも付いている。店主はタータンチェックの巻きスカートを履いた愉快な方。

一日観光を終えホテルに帰ってきたら、朝とは別の結婚式がすでに始まっていた。ひと休みし、買い物に出掛けた。帰ってくる頃には宴会は終わっているだろうと思っていたのに、なんとまだ続いていた。部屋の電気を消して、何度も様子を伺った。父親や新婦の涙のスピーチ、、、こちらまでウルウルしそう。しかし、宴会は長過ぎ。終わったのは11時近くだ。今思えば、フレンチ窓から出て、宴会に交ぜてもらえば良かったかなあ。カナダの婚礼を間近に見られるなんて、なかなかないからね。

時間が止まったようなP.E.I 。もしも、また来る機会があったならば、もう少し長く滞在し、飽きるくらいロブスターを食べまくりたい。
すっきり晴れた秋空の中、パッチワークのような風景に別れを告げ、トロントへ向かう。
12:30トロント着。前回の市内観光でCNタワーに行ったのだが、またタワーに昇りたくなって寄り道をする。送迎車は、私達だけだったので、好きにさせてくれた。オンタリオ湖を眺めて満足し、「精霊が呼んでいるナイアガラ」へと向かう。

杭州春爛漫・西湖へ、龍之介に誘われ、西施と遊ぶ...

2010/07/10 09:07:09

  
              行く春や 西施晴のち 雨に遇う
  
  今回のこの旅に、僕を誘ってくれたのは、まずは、芥川龍之介が、90年ほど前に書いた紀行文【江南游記】である。そして、もうひとつは、西湖に行けば、ひょっとして西施に会えるのではないかという思い込みからである。

  芥川は、1920年(大正9年)5月に、中国を舞台とした短編小説【杜子春】、【南京の基督】を発表している。翌1921年(大正10年)3月末、29歳の時、大阪毎日新聞海外視察員として中国に長期に出かけている。
  1914年第一次世界大戦、1915年日本は対中国21箇条の要求を突きつけ、1919年5月4日学生による五四運動による反日運動が起き、次第に全国に広がっていった。そして芥川がまだ中国にいた1921年7月に、上海で密かに中国共産党が成立している。芥川が来た頃の上海は、反日運動と、労働運動が激しくなりつつある時代で、治安は決して良くはなかった。
  芥川は、上海到着後乾性肋膜炎に罹り、約三週間、上海の里見病院に入院する。その後、上海、江南、長江、櫨山に至り、武漢、洞庭湖から長沙、北京、朝鮮を経て、7月末に帰国している。帰国後、8月17日より、大阪毎日新聞に、まずは「上海游記」を掲載する(9月12日完結)。翌大正11年、30歳の龍之介は、1月1日から、同新聞に、「江南游記」を掲載し、2月3日に完結している。この「江南游記」では、杭州の西湖については、上海から杭州に行くまでの車中の情景、杭州の一夜(上・中・下)、そして西湖の景色(一)~(四)で纏めている。
  
  僕が、中国四大美人の一人である西施という名前を見たのは、高校生の時だった。芭蕉が、『奥の細道』の道中、象潟で詠んだ、【象潟や 雨に西施が ねぶの花】という俳句を教科書で見た時、西施って何、何故ここに西施なのと、思ったのだ。象潟は、太平洋側の松島に対する日本海の名勝であった。その美しさを、美人にたとえ、松島は笑顔の明るい美人、それに対し、象潟は、憂いを含むしっとりとした美人と表現したと、その後見たあんちょこに書いてあった。実は、その時に初めて僕は、西施と言う美人を知ったのだ。
  中国四大美人と言えば、西施のほかに、貂禅(閉月美人)、王昭君(落雁美人)、そして楊貴妃(羞花美人)がいる。 西施は、春秋時代と言うから、紀元前5世頃、呉越が争う中、越王から呉王に献上された人である。魚が泳ぎを忘れるほどの美しさから、「沈魚美人」と呼ばれる。西施の使命は、呉王夫差に政治を忘れさせ、莫大な浪費をさせるためであるから、当然に、美人でなければならないが、男の気をそそるには、やはり、憂いを含むしっとりした雰囲気をも必要であったのだろう。
  余計なことだが、美人と言えども、欠点はあるもので、わが愛する西施は、大根足である為、彼女のスカートは丈が長かったと言われている。楊貴妃は腋臭であるため、一日に何回も風呂に入っていたし、王昭君は撫で肩、貂禅は耳がとても小さく、いつも大きなイアリングをつけていた、と言う話もあるようだ。
  その西施(西子)と西湖との関係を探してみた。まずは、西湖に蘇堤を造った蘇東坡(蘇軾)の【湖上に飲む。始め晴れ、のち雨】の後半で、「西湖をとりて西子に比べんとすれば、淡粧、濃抹、すべてあいよろし」(西湖の美しさを傾国の美女西施に比べてみよう。薄化粧しても、厚化粧にしても西施は美しかったと言うが、西湖も晴れの日も、雨の日も、私にのびのびとした気分を与えてくれる)という七言絶句を見つけた。
  もうひとつは、蘇東坡(蘇軾)の前記の七言絶句を受けて、やはり同時代の陸游が詠んだ【湖中微雨、戯れに作る】の後半で、「言うなかれ老子一人の振り向く無しと、なお得たり西施が淡粧をなせるを」(歳をとると誰も相手にしてくれない、などと言ってはいけない。薄化粧をした西施のように、西湖が慰めてくれたよ)という七言絶句も見つけたのだ。
  この二作品を読むや、僕は、意気揚々と、西湖への旅に出かけた。

  
  芥川は、上海から杭州までは,病み上がりの身を、一等のコパートメントに乗り、鉄道で出かけている。正確にはわからないが、少なくとも6,7時間は掛かったのだろう。午後7時頃に杭州の駅に到着し、早速税関による荷物検査がある。中国であって中国でないという当時の上海がおかれた国際情勢が、ここからも読み取れる。
  一方、僕は、スーパーモダニズムの駅舎である上海南駅を9:30発の和階号動車組列車で出発し、11:15に杭州に到着した。途中、大規模な高架橋の工事が進められており、何の工事かをたずねると、上海からのリニア鉄道の工事だという。完成すれば、約30分で上海から杭州に着くそうだ。杭州駅は相変わらずの賑わいである。もちろん税関の検査などは、今は無いが、タクシー乗り場は、人で溢れている。しかし、このタクシー乗り場に入ってくるタクシーは、僅かである。一体何時間待てばよいのか。迷うことなくバス乗り場に向かう。ホテルに近いバス停の名前を聞き、その路線バスに乗り込む。幸いに乗客は少なく、言われたバス停で下り、宿泊先のホテルへは、荷物を引っ張って向かう。
  芥川は、税関検査が終わると、駅前に待機する大勢の客引き(芥川は“宿引き”と書いている)に迎えられる。宿泊する新新旅館の客引きを探すのに時間がかかり、やっと駅から人力車に乗り、城内の狭く、かつ真っ暗な凸凹道を走り始める。「これが城外の町、突き当りが西湖ですよ」と言う案内人の声に前方を眺めるが、闇夜が見えるだけであったが、しばらくすると、薄明るい水面が現れてきた。茫々と煙った水の上には雲の裂けた中空から、幅の狭い月光が流れている。その水を斜めに横切ったのは、蘇堤か白堤に違いないが、銀と黒に輝く光景を堪能している。しかし、次第にお腹も空いてきて、不機嫌になっていくが、旅館らしきものは一向に見えてこない。
  新新旅館は名前の通り、西洋風のホテルである。しかし“東洋人”と見くびったのか、と憤るほど、坐ったまま西湖の見える部屋(レイクビュー)でなかったことや、その部屋の狭さにも不満を持ったようだ。取り合えず、食事を早速注文したのだが、食堂はもう締まったので、西洋料理は出来無いと言われ、已むを得ず頼んだ中華料理も、食い残りものを集め、それらしく見せる料理だと言われる「全家宝」ではないかと疑うのである。いずれにしても上海に来て早々病気になり、その上、杭州初日目の間の悪さに、些か拗ねたのか、この後の旅では、芥川は、かなり厳しい評価をしているように思える。
  
  
  僕は昼食を軽く済まして、まずは西湖あたりをうろつく事とした。その移動方法を考えたのだが、結局、近くの貸自転車の事務所に行き、200元の保証金と、100元の前払い使用料を支払い、プリペイドカードを購入した。このカードでバスも乗れるそうだ。自転車は1時間以上連続して乗っていると有料になる。しかし、西湖周辺に沢山ある専用の駐輪場に、カードでチェックして自転車を1時間未満に返せば、何回繰り返し借りても、料金は掛からないのである。結局僕は2日間、何回も自転車を換えながら、西湖の周り約15キロを回ったのだが、駅までの往復の交通費以外は、掛からなかった。
  まず僕は、自転車で、芥川が泊まった新新飯店(彼は新新旅館と言っているが)に向かうことにした。ホテルから西に向かい、西湖に突き当る手前を右手にとり、北山路を走る。この道路沿いは、三評西湖十景のひとつ【北街夢尋】である。北は、山側となり、南は、西湖を白堤で仕切った北里湖に面している。霞が掛かっているのか、白堤は鈍色に輝き、セピア色の世界である。そこから近くの山側に、1920年代の代表的な中西様式の建築である 「抱青別墅」(北山街38~40号)がある。更に西に向かうと、クラッシカルな3棟の洋館が見えてきた。新新飯店である。昼間は交通量が多いため、写真を撮るのを諦め、暫し、芥川のここでの行動を想像していたのだ。シャングリラホテルの方向に向かおうとし、少し力を入れてペダルを踏んだら、自転車が空回りしてしまうのである。結局、自転車を引きながら岳廟前まで歩くこととなった。ついでに、岳廟を覗いたが、特に興味をそそるものはなかったが、ただ岳飛の政敵の秦檜らに対して、今も延々と続く、中国人の憎悪の深さと激しさには、正直驚きである。

  岳廟前の専用駐輪場で、自転車を乗り換えた。この後、北山路に接面するシャングリラホテルの前あたりから白堤に入り、西冷橋の手前右手に、唐代に銭塘の名妓と言われた、蘇小小の、土饅頭に漆喰をかけた墓がある。 そして西冷橋を渡った左手に、あの「秋風秋雨愁殺人」の詞と共に、革命に殉じた鑑湖・秋瑾女史の、右手で刀を持った立像がある。死んだら、西湖の見える場所に墓を建てて欲しいと言う 秋瑾女史の意志に基づき、友人が建てたと言う話だ。僕は、秋瑾さんのこの凛々しい立像がとても好きだ。
  芥川は、蘇小小の土饅頭に漆喰をかけた墓が、荒れ放題に荒らされているのを、がっかりしてみている。おまけに、その前にある西冷橋の上で、中学生が2,3人反日の歌を歌っているのを聞き、慌てふためいて、橋を挟んだ左手にある秋瑾女史の墓を一見して早々に舟に戻っている。

  僕は、再び新新飯店近くに戻り、西湖新十景のひとつ【宝石流霞】である宝石山に登ることにした。新新飯店の裏手の坂道を自転車を漕ぎながら走っていると、雨粒が落ちてきた。麓の石段の手前で、自転車を置き、石段を上り始めた。小糠雨に降られながら石段を登って行くと、両側の竹やぶの若葉は次第にしっとりと艶かしくなっていく。石段を上がるにつれ、西湖が樹々の間から見え隠れしてくる。時々立ち止まり、西湖を眺めていると、西施の声が何処からか聞こえてくるような錯覚に陥っていく。雨が止んだ山上で、まずは【宝石流霞】の石碑を、そしてその向こうに、保俶塔(1933年再建)がその細身の姿を誇示するかのように、婉然と建っているのを見つける。 宝石山から西湖を望むと、紅を深めて落日が消えた後も、薄絹で覆われたような薄明かりの中に、白堤が見え、断橋も錦帯橋も霞んで見える。その遥か先には、幽かに雷峰塔の輪郭が見える。やがて消えゆく様を、身を清めるような喜びを感じながら眺めることができる、まさに春の夕暮れの、その瞬間であった 。

  僕は、西湖に行けば、白堤にある老舗レストランの楼外楼での食事を、いつもの楽しみにしている。込み合うシーズンでもあるので、急いで下山し、向かうこととした。北山路を東に向かい、白堤に入り、断橋を渡り、錦帯橋を渡る頃、先ほどまでいた宝石山が、ライトアップされていることに気がつく。このあたりは【平湖秋月】と言われる西湖十景のひとつであるが、如何せん、今は、時が春である。白堤に立ち、見渡せば、西湖の周りは、順次灯りで浮き上がっていく。その状況を写真に撮りながら、他方では、食べることに卑しい僕は、楼外楼の席の確保を心配していたのだ。予想通り、楼外楼の前はごった返していた。2階のテラスに席が確保できるという案内に従い、2階に上がる。既に店内では、賑やかな宴会が始まっていた。
  芥川は、舟で楼外楼に来て、店の前の槐の下で、昼食をとっている。
僕は、早速、菜単を見て注文する。冷菜はもち米を詰め蒸した甘いレンコンの【西湖蜜藕】、豚肉料理は蘇東坡が愛した【東坡肉】、スープは【宋嫂魚羹】、そして西湖名物、西湖で取れる淡水蝦と銘茶龍仁茶を炒めた【龍井蝦仁】、今が旬の【雪菜春筍】、食後のデザートは【東坡酥】と言う甘いお菓子、そして老酒は、少し甘口か、ここの料理に合う特注【宋嫂特醸】である。
 時は今まさに【春宵一刻値千金】、何となく、そわそわと、そして生き生きと感じられる頃である。老酒を、飲みながら、わが西施のお出ましを待つばかりではあったのだが。

             春の夜や 西施微笑む たまゆらに
  
  芥川は、翌日、ホテルの前の桟橋から画舫に乗り、西湖の見学に出かけている。当時の湖畔の道路事情や、乗り物の状況から見て、ほとんどが舟での見学であった。画舫とは、美しく飾った遊覧舟と言うことになるが、芥川は、白木綿の日除けを張り、真鍮の手すりがついた、平凡極まりない小舟だと言っている。
  西湖の水位はとても浅く、放っておくと干上ってしまうようで、これまでに幾度も水利工事などがなされてきた。芥川は、まずは白楽天が作った白堤の錦帯橋をくぐり、進路を右にとり、弧山に着く。西湖十景の【平湖秋月】に到着したのだが、僕と同じく、晩春の頃では致し方がないと諦める。弧山は、大きいだけに俗悪な門や白壁が続いているだけだと酷評している。
  岳廟に向かう舟の中で、芥川は、西湖を、春寒をおそれる中国美人に例え、いたるところで見れる赤と鼠の二色の俗悪恐るべき煉瓦建てのために、西湖美人は傷つき、更に江南一体の景色はことごとく破壊されていると嘆くのである。蘇堤に架かる跨虹橋を渡り、やはり西湖十景のひとつである【曲院風荷】に入ると、煉瓦建がなく、白壁を囲んだ柳に、桃の花が咲き、青々と苔蒸す玉帯橋が水面にぼんやり映る景色には満足している。
  
  
  冬から解放された【春の朝】の気分は、格別のものがあろう。見慣れ慎ましい日々にも、何やらささやかな秘めたる喜びを感ずるものだ。ましてや、見知らぬ春の朝の西湖には、西施との出会いへの期待に、興奮したのか、明けようとして、未だ暗い、暁闇に、僕は目が覚めてしまった。  
  【春眠暁を覚えず】、妻問婚時代は、暁(鶏鳴)とともに男が女のもとを去った後朝(きぬぎぬ)の別れがあった。もちろんこの風習などがない今は、暁と曙の区別する必要がなくなったといえよう。
   
             春曙 夢にうつつの 目覚めかな

 目は覚めたものの、ベットでうつらうつらしていたために、気がついた時には、外は朧げにも風景を見ることができる曙の頃となっていた。急いで起き上がり、ホテルの前の駐輪場で、良さそうな自転車を選び、西湖に向かった。昨日交通の激しかったために、写真を撮ることの出来なかった「抱青別墅」の写真を写した。新新飯店でも、車の走っていない北山路に出て写真を撮り、その後、振り返って湖面越しに、早朝の白堤、断橋なども写した。そして蘇堤に向かった。
  蘇堤は、西湖十景の【蘇堤春暁】である。暁を楽しむには時間が少し遅すぎたようであるが、早朝の散歩を楽しむ人、走る人、朝からおしゃべりを楽しむ人などにも出会うことが出来る。蘇堤は、白や紅色、そして八重などの桃の花が満開であった。左手には西湖、右手には西里湖があり、観光舟なのだろうか,漁師舟なのか、早朝から多くの舟が蘇堤にある望山橋などの橋下を通過して行き来している。望山橋の左手先方に【三潭印月】が見える。その橋桁近くに、隋の煬帝が愛したと言う「琼花」を見つけた。この花を見たいがために、煬帝は京杭大運河を築造させたとまで言われるほどの花である。現在は揚州の市の花となっているそうだ。斜め左前方に雷峰塔の姿がはっきりと見えてきた。西湖十景の【雷峰夕照】である。17世紀の初頭、この西湖も日本の倭寇に攻められたと、案内書には書いてある。当時この雷峰塔が見張台の代わりをしていたので、倭寇はこの塔を破壊しようと、火をかけたため、赤レンガ製造が始められる前に、この塔は赤レンガになったと言われている。実は、芥川が見た雷峰塔と、僕が見た雷峰塔とは別のものである。芥川が見たのは、1921年、その3年後の1924年に雷峰塔は倒壊している。2000年に今の雷峰塔が再建されているのだ。
  僕は雷峰塔を横目で見ながら、南山路を自転車で北上した。この一帯の湖畔には、柳が沢山植えられており、しだれ柳の新芽が、風にゆっくり揺れるのが、御簾のように見え、やがて西施が奥から現れるのではと、一瞬心をときめかせたのだ。この時間になると、湖畔沿いの公園は結構人が出ており、散策やダンス、健康運動などをグループに分かれて、楽しんでいる。水辺には渡り鳥なのか、水鳥が賑やかに泳いでいる。風に揺れる柳の新芽をかき分け、小鳥の賑やかな鳴き声を聞きながら、公園内を更に奥へと歩いて行くと、次第に清清しく、長閑な気分になっていくのである。まさに春爛漫である。地図で現在位置を探してみると、西湖の東岸にある公園で、西湖十景の【柳浪聞鶯】であった。
  公園の表側の道路沿いには、新しい感覚のレストランなどが並んでおり、夜などは結構賑やかな場所なのだろう。更に北上すると、その先に市街地のビルが見え始めてきた。三評西湖十景の【湖浜晴雨】涌金門の公園では、赤いユニホームを着て、小太鼓を体につけた女子団が厳しい練習をしているのを、休憩をしながら、ベンチに座り眺めることにした。ところが、早朝から激しい叱責が飛ぶ練習をボーット見ている自分が、何故かとても恥ずかしく感じてきたので、公園を早々に退出した。
  ホテルには午前9時半頃に戻ってきた。直接2階のレストランに行き、朝食をとることにした。適度な運動に、お腹も空き、久しぶりに旨い朝食をとることが出来た。

  白楽天が、3年の任期を終え長安に戻る時に詠んだ七言絶句【西湖留別】があるが、【処処、頭を廻らせば、ことごとく恋うるに堪えたり、就中、別れ難きは是れ湖辺】と、一番別れが辛いのは、西湖のほとりだと言っている。僅か2日間しか滞在しなかった僕でさえ、なぜか別れ難き思いに陥いっていくのである。

北スペイン古寺巡礼   幻のアストゥリアス王国を訪ねて...

2010/06/28 06:06:38

「 ピレネーの向こうはアフリカだ 」

そう言い放ったのは、あのナポレオンだった。
かつて地球上の1/3を支配し、その領土に陽が落ちる事は無いと謳われた大スペインに対してだ。 凋落を始めた隣国に、随分な言い様だと思うが、この喩えは今でもフランス人の口から、よく出てくる。 確かにパリから飛行機に乗ってくると、眼下に広がる荒涼とした大地に、このままサハラ砂漠に続いているような印象を受け、それが移民問題とリンクされているからかも知れない。

そんなフランス人でさえ、1000年間に渡って憧れ、そして歩き続けてきた街道があった。

それがフランス国境からビスケー湾沿いに連なるバスク~カンタブリア~アストゥリアスを抜けてガリシアの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラへと続くCamino del Norteである。内陸と違い、気候が穏やかにして、湿潤な風土は、農産や牧畜を潤わしただけでなく、巡礼者の視線にも緑の恵みを与えた。 

そして、いつしか、この地域は グリーン・スペイン と呼ばれるようになった

風薫る5月、その道をローカルバスに乗り、
気に入った街で途中下車してロマネスクの古寺を巡り、夜は石畳の路地を歩いて、地元の親父達で賑わうBarをハシゴしよう! そんな大人の愉しみの企みで旅程表が、びっしりと書き込まれて、いよいよ出発の日を迎えた。

via SEOUL
28 Apr 2010 雨 成田–仁川

GWの前日、退社後、ソウル行きの最終便に
飛び乗り、20:40 仁川空港に着いた。私をここに途中降機させたのは、3ヶ月前にLufthansaから届いた一通のDMだった。3日間だけ売り出された欧州早割りの設定が、Won安も加わってOPEN JAWで63000円! ピーク時期にしか休みが取れないサラリーマンに取って、ICNという空港コードは旅の連立方程式の主要な基数だ。

 宿泊は空港近くのアパートメントホテルを利用、至近、至便で20畳程のワンルームにキングベッドの他に台所や洗濯機まで揃っていた。 洗濯機を回しながらゆっくりと風呂に入った。浴後は1Fにある居酒屋で遅い夕食を取ってから就寝した。

16時間の旅路
29 Apr 晴れ 仁川~ミュンヘン~ビルバオ

空港の職員食堂で5000Wonのビビンバを朝食に取った。洗面器のような器に盛られた色鮮やかな 野菜に、旅立つ元気を貰って、Lufthansaに搭乗した。 12:00 満席で離陸、そして17:15 陽がまだ高いミュンヘンに到着した。

前日のソウルは 気温、僅か5°そこから初夏の欧州に移動した。 19:25 再出発して 22:05 スペイン北部のハブ空港であるBilbaoに到着した。乗り継ぎも入れ、16時間の長旅だったが、まだまだ気が抜けない。 市内バスでバスターミナル(以後 BT)に向かう。 
高速道路の先にビルバオの顔となったグッゲンハイム美術館の銀色の塊が夜空に浮かび上がって来る。バスはそこに激突するのではないと思う程、建物のすぐ横を通過して、15分でBTに着いた。   
懐からSmart Phoneを出して、Navi Computer+GPSを起動させた。今度の旅は連日、バス移動なので、Google MapでBTの半径200m以内+40 Euro以内の宿を「付近検索+レビュー」を参考に予約していた。Google Mapに登録してあるホテルを呼び出し、方位を確かめてからながら真っ暗な街を歩き、薄暗いビルに小さく貼られたHostalSan Mamesの看板を見つけた。 ソウルの宿を出てから、20時間たって私は、ようやく眠りにつけた。


ビスカヤ橋 WCH
30 Apr 11° 晴れ ビルバオ~オヴィエド

5:00起床 宿の前のSan Mames駅からC1線に乗りPortugalete駅まで15分 川沿いに、朝霧を突き抜けて世にも奇妙な建造物が見えてきた。 


これが世界遺産のビスカヤ橋WCHである。川を移動する車や人は、橋の上部にから吊るされた水上キャビンに乗り込み、それが頻繁に川を往復する仕掛けだ。乗船料?は0.3 Euro 側を渡し船も運行してるが、殆どの人は、このキャビンに乗る。 エッフェルの弟子が、この独創的な橋を建設したのが1893年、それから117年を経過しても、街に役立っている。凄いもんだなあ、と感嘆してから、 対岸のBarに入り、冷えた体をスペイン式にテ・コンレッチェとトルティーヤの朝食で温めた。

地球上 最古のアートを目指す

宿に戻り、目の前のBTから8:30のALSAのバスでSantanderに向かう。ALSAはスペイン北部の バス網を一手に支配している会社だ。9:50に着いてから、今度は1日に4本しかないカンタブリア州の公営バスに乗り換えて、Santillana del Marに11:10 着。 美味しそうなタベルナを見つけて、そこに荷物を置き、Taxiを呼んでもらう。 
目指すは、アルタミラ洞窟!そうあの小学校の教科書に載っていた、世界遺産中の世界遺産だ! 1万5000年前の壁画は1985年から、壁画保存の為、非公開とされ、その隣に、同じで大きさの洞窟を再現して、アルタミラ博物館WCHとして 公開している。 20名位の人数限定で、30分おきに洞窟内ツアーが開催されていて、平日だったので、30分待ってから洞窟内に入れた。 そこは広大な洞窟で、本物と寸分違わず再現されているが、とてもこれがレプリカだとは思えないリアルさだ。 

そして、各所にホログラフィーで、15000年前の人々の生活が再現されていて、何故、ここにあの絵が描かれたのか? を説明している。 最奥部の天井に、あの教科書の写真に出てた牛の絵を見つけた。 それは岩の凹凸を上手く活用し、浮き彫りのように描かれていて、驚くほどの躍動感がある。 地球上最古のアートに感動して、ここに来て良かったと思った。


ガウディの気紛れ亭

 サンティリャーナ・デル・マルに戻り、昼食を取った。12Euroの定食:カンタブリア・シチュー(隠元豆とブータン・ノワールの煮込み)烏賊墨リゾット、シードル、ドルチェを取る。 カンタブリアからアウストリアスにかけて、この豆を使った煮込みが多い。それから、また公営バスに乗って、隣町のComillasに 14:00到着 バス停の前の土産物屋に入り、名産のチョコレート、エスカルゴの缶詰、絵葉書等を買う。ここで、荷物を預かって貰い、街を歩く。街道から離れた、この街を目指してきたのは、ガウディがカタルーニャ以外で創った、世にも不思議な住宅を見たかったからだ。
それが、この地の豪商だったコミーリャス家の依頼で作られた El Capriccio de Gaudi である。


キューバ貿易によって財を成し、侯爵にまで上り詰めた、一族は時のスペイン王・アルフォンソ12世を頻繁に、この地に招いた。王族の避暑地であったサンタンデールから近い事もあり、 貴族や富裕層達も、この景勝の地に別荘を築くようになり、段々と文化の香り高い街と成って行った。そこに、やってきた新進気鋭の建築家は、何が飛び出して来るか判らないようなビックリ箱の家をこの高雅な街に残した。「El Capriccio = 気紛れ」と名付けられた家は次の世界遺産の候補となっている。土産物屋の前に広がるコミーリャス家の広大な敷地の丘には、侯爵家の居城であったネオ・ゴシック様式のソブレジャーノ邸が建っている。 その丘まで歩いて、左側に回ると、木立の中に突然、それはある。 思わず、アングリと口を開けてしまう程、その建築はオカシナ建物だった。 まさにガウディの遊び心満載で、童話でしか見た事がない「お菓子の家」が目の前に建っている驚きだった。 ここは数年前まで日本人が買取り、レストランとして営業していたが、現在は修復下にあり内部に入る事は出来なかった。 



この街は、他にも魅力的な風景が多くあり、それが観光地でなく町として生きているのが魅力だ. 定食屋を覗くと、15 Euroの献立に、採れた海産物の料理が並んでいる。中でもマッドクラブのパエリヤに涎が出た。次は、この街で泊まろう!蟹に後ろ髪を引かれながらも、バス停へ急いだ。


アストゥリアス州へ

TaxiでSan VicenteのBTに着きまたALSAのバスに乗り換えてOviedoを目指す。 カンタブリアを抜けて、ここからはアストゥリアス州に入る。 バスは海岸と内陸を蛇行しながら走る。その景色は、まるでトスカーナの丘がリアス式海岸に点在しているような美しさだ。まさにグリーン・スペインの絵巻を見ているようだ。 18:45 OviedoのBTに到着。Renfe(国鉄)の駅前まで歩き、Hostal Oviedに投宿。 宿のマダムは中年巡礼者に、一番奥の部屋を与えてくれた。キング・ベッドにバスタブ付で38 Euroはお値打ちだった。 

洗濯を手短にして、カテドラル広場まで歩き、La Mas Barataという街一番のBarで夕食を取る。 ダイニングと立呑とあったが殆どの紳士淑女達が立呑で、ピンチョス(小皿)を摘まんでいるので、私もそちらのカウンターで高椅子に座って注文をする。 ベガ・シシリアで誉れ高いAlionをグラスワインで頼むと、おとうしで小さなフライパンにパエリャが乗ってくる。追加で、小エビとシャンピニオンのソテーも取った。どれも旨いし、銘酒を取って僅か9 Euro 安いなあ、、サンセバスチャンなら倍するかなあ、、と思いながら、この街がどんどん好きになっていった。ハシゴして、もう一軒、今度は親父度のもっとディープな店に入り、ピンティアを頼み、ガリシア産タコのポテトソースがけで12Euro。  リベラ・デル・デュエロの銘酒に酔ながら、この町で檀一雄のように沈もうか、、と夢みて オヴィエドの夜は更けた。


アストゥリアス王国の夢 
1/ May 小雨- 曇 オヴィエド~レオン

実は、この日のために、今度の旅を計画したと云っても過言ではない。 9世紀に、この地を治めたアストゥリアス王国の遺跡を訪れる事だ。遺跡がある街の北西のナランコ山までバスが通っていたが、一時間に一本だけなので、歩いて向かう事にした。またSmartphoneを取り出し、Google Mapでルート検索してGPXに変換してあったファイルを呼び起こす。 これでオフラインでも、目的地までのナヴィゲーションが出来る。途中から冷たい小雨が降ってきた。この辺りは高級住宅地らしく休日の早朝の静けさを破る足音に、あちこちから番犬が吠えて出迎えてくれた。ホテルを出てから25分でSantaMariadelNaranco教会に到着した。朝靄に包まれて緑の丘に朴訥な聖堂が建っている。

聖堂の外観は11世紀に始まるロマネスク建築やシトー派寺院の建築構造に近いので、プレ・ロマネスク様式と呼ばれている。この聖堂群を知ったのは地球の歩き方のオビエドのページでだった。 僅か3cm四方の写真ながら、緑の丘に立つ、San Miguele de Lillo聖堂の素朴なフォルムを見た瞬間に、私は一目惚れした。以来、サンチャゴ・コンポステーラに三度も巡礼をする機会を得ながらも、ついぞ足を伸ばせずにいた。 イベリア半島の西端の、この地にだけ、何故このような建築が存在したか? あの丘に立って、その謎を解き明かしたい、そんな宿願叶っての今日を迎えていた。 
普段は閉ざされている聖堂が一時間に一回だけガイドが鍵を開けて説明してくれる


彼女の説明によると、レコンキスタの始まる前から先住していた西ゴート族の王の元へ、当時、 世界の頂点に輝いていたビザンティン帝国の職人達が招かれ、この聖堂造営に寄与したと云う。    
私は内陣を支える柱頭の網目文様に注目した。似た文様を遥か東方、アルメニアのエチミジアン教会で見た話を告げ、ビザンティンとケルトの関与も尋ねる、「あなたの云われるようにケルト人達はガリシア一帯を西ゴート族と共生しながらいたから、その影響もあるだろう、、」と頷いてくれた。 それから扉を閉めて、山を200m登って、San Miguele de Lillo教会 WCH に着いた。
「あー、ようやく、この丘に立てた」 眼前に在ったのは まさにロマネスクという美意識の原石とも呼ぶべき美しさと精神性に満ちた建築だ。南仏にあるル・トロネ修道院はコルヴィジェから安藤忠雄まで魅了しその建築に影響を与えたが、私は、この建築が持つ静謐と内省から、白井晟一の建築美学を感じた。


聖ヤコブ伝説

この聖堂は実はアストウリアス王国の王の離宮として造営された。 当時、イベリア半島は、西ゴート王国を駆逐したウマイヤ朝の支配下にあったが、半島の北西にあり、あまり地政学的魅力に乏しかった、この地域はムスリム勢力の支配から逃れ、キリスト教圏の飛び地となっていた。 


その形勢が逆転して行くのは西暦718年 西ゴートの末裔を名乗るペラヨが、キリスト教徒をまとめて、イスラムと戦い、初めて勝利してからだ。ペラヨは、ここオヴィエドにアストウリアス王国を築いた。 そこから、1492年までの800年間もの長きに渡って、イスラム vs キリスト教のロングバトルが続いて行く、これが再征服運動:レコンキスタであるが、後に西欧全体の大義に昇格して行く戦いの、第一歩が、この王国から始まった。 

 
当時のウマイヤ朝は、メッカを都とし、東はトランスオクシアナ、西はジブラルタルから北アフリカまでを治める超大国であった。 ペラヨが反旗を翻した戦いは、云ってみればアメリカに北ベトナムが戦いを挑むような賭けであったろう。 この局地戦に勝利に導く為、ペラヨはこれをキリスト教徒にとっての「聖戦」であると印象づけた。 その大義を庶民にまでも浸透させ、半島の領土回復を全キリスト教圏の命題として転化させる為、彼等は一つのシナリオを描いた。それが聖ヤコブ伝説(遺骸発見~サンチャゴ・デル・コンポステーラ聖堂造営)と歴史家は見ている。王国は後に、レオンに首都を移転してカスティーリャ王国を名乗り、それが拡大して、スペイン王国となり、遂にはハプスブルグ帝国へと変貌して行った。 
聖ヤコブ伝説は、遠くフランス、ドイツにまで伝わり、エルサレム、ヴァチカンに続く第三の聖地として崇められるように神話化されていった。11世紀になり、エルサレムはオスマン帝国にあり、ヴァチカンでさえ遙か彼方に思えた時代にあって、イベリア半島の西端は、西欧の民衆達の熱望する巡礼地へと変貌した。フランスの各地からは聖地を目指す街道が作られ、道中の各所にも寺院や病院などの巡礼者をサポートするインフラが整備されて行った。 ここから、経済活動ではない人々の移動、つまり「旅」が始まったと云われている。 現在でも、毎年、50万人もの巡礼者が、フランス国境から、自分の足だけで、サンチャゴ・コンポステーラを目指す。 その巡礼は951年に、このオヴィエドの王宮から、始まったのだ。 苔生した建物は、今は訪れる人も少なく、美しい自然の中にひっそりとしている。


オヴィエドの街

 帰路はバスで山を降り10分でカテドラル広場に戻った。今日はメーデーで、広場は民族衣装を着た人々が伝統の踊りを披露していた。面白いのは、男達が身につけているバグパイプとスカートだ。ケルトの出自をガリシアだけでなくアストウリアスでも間近で見られて、生きた歴史の教科書のようだ。 カテドラルに併設して考古学博物館があり、先史時代からの装飾品、宝物などがあり、ヒッタイトの末裔達の遠い旅路を示していた。


 
街で1番と云われるレストランに入り、祝日メニューの昼食を注文した。海老とトマトのサラダ、ハマグリとエンドウ豆のポタージュ、オッソブーコ、クレープシュゼット、コーヒーが付いて25 Euroだった。給仕がシードル酒をサーブする儀式が面白く、この土地の食文化の豊かさを堪能した。

レオンへ

 14:30のバスに乗り、ビスケー湾を離れて内陸へと南下する。 景色から、どんどん緑が少なくなっていく。 16:15 レオン着 この町はアストゥリアス王国が都を移転した先であり、巡礼路の中の最大の要所だ。 BTから川を越えて、左側に歩く事10分 豪壮な館が見えてくる。 格調高い玄関口には黒服の守衛が、進んでくる異国のバックパッカーに警戒の視線を投げかけている。
 私は、おもむろに「amigos DE PARADORES」と刻印された金色のカードを差し出すと、彼の表情に笑顔が戻った。

 そう、ここが スペインに93あるパラドールの中で、五つ星の付くたった二軒の内の宿 San Marcos なのだ。(因みにもう一軒はサンチャゴ・コンポステーラの寺院の目の前にある、Reyes Catolicosだ。) 予算 40 Euroを旨とするバジェット・トラベラーが、ここに泊まるのには訳がある。 一つは、この建築自体が、一つの美術品だからだ。 16世紀から200年もの歳月をかけて建設されたこの館は、王が巡礼者達のために作った病院兼修道院で、建物の長さは100mにも及ぶ。プラテレスコ様式の回廊の他、大きな礼拝堂も館内に併設している。客室や館内は16世紀の内装を見事に改修し往時の美術品で飾られている、まさに美術館に泊まるようなものだからだ。

しかし、そんな贅を尽くした宿も、昨今の観光不況には苦戦していて、前年の11月に顧客宛のDMで早期割引のキャンペーンを流していた。その中で、僅か75 Euroのシングルが、この日に空いていたので、予約した次第であった。 部屋に荷物を置き早速、館内を回った。 中庭を取り囲むように長方形の建物があるのは、Reyes Catolicosと同じだが、ここには、巨大な礼拝堂が館内に有った。 ここで結婚式をあげて食堂で披露宴をするのが、 この地方のセレブの流儀らしい。
 
まだ陽が高いので、高名なカテドラルに向かった。パラドールからは裏通りを10分程、北上すると天を突き刺すようにカテドラルが見えて来る。 久しぶりに大勢の観光客を目にする。 聖堂に入ると、ステンドグラスの光に魅了された。 まさにレオン王国の絶頂期の栄華を光で留めている。この聖堂が、銀の道の交易で潤ったレオンの豪族達の力だけで造営されたのだから、帝国の偉大さは、想像するに難くない。シャルトルやサントシャペル以外に、もうステンドグラスは無いと思っていた無知を恥じた。 中世の美の後は近代! ガウディの作ったポティーネス館を訪れた。館は現在は、おもちゃ博物館として公開されている。 エル・カプリッチョから8年後 39歳の時に、この町に移り住んだガウディが作った建築で、館の前には、建築ノートを見ながら考え込むガウディの姿がブロンズで残されていて、横に座って天才と2 shot出来る名所になっている。

 
宿に戻り、深々としたベッドに倒れこんだ。強行軍のつけが、どっと出てきて、夕食にも立てずに眠りこけた。 2:00に目が覚めて、大理石の浴槽で肩まで湯に浸かった。 洗濯をしながら、ここが東方からの巡礼者にも格安で旅の疲れを癒してくれた事に感謝した。

ロマネスクのシスティーナ
2/ May 快晴 レオン ~ アビラ~サラマンカ

久しぶりに寝坊をする。ダイニングだと20 Euroもするので、サン・イシドロ教会まで歩き、開館までの間、Barで朝食を取る。そこまでの道路には50m置きに聖ヤコブのシンボルであるホタテのマークがブロンズで道に刻印されて道標となっている。 この裏通りと思えた道が正式の巡礼路だったのだ。 バックパックから前方にビデオカメラを固定して歩いている青年に会った。 ベルギーから自分が歩く全行程を駒撮りで記録しているという。 それは、いつかホームページで公開するのか?と訊くと、自分だけの記録に過ぎない、、と語った。 巡礼者は誇示する為に歩いているのではなく、内省する旅路だという事を気づかされる出会いだった。



10時になってからサン・イシドロ教会の地下聖堂への扉が開いた。 王族の一族の霊廟が並ぶ空間は、現在の教会の半地下にあるが、ヴォールトが組まれて丸天井がある。その天井一杯に、12世紀に描かれた聖書の寓画が完璧に残っている。 中世の人々の信仰観が絵説き本のように表されている。「ロマネスクのシスティーナ」と讃えられるがピッタリの喩えだ。 頭上から突然、賛美歌が聞こえてきたので、慌てて、管理人に「ミサに行って来る」と頼んで、外に回り、近代の聖堂に入った。 スペイン語なので説教はもちろん判らないが、「主の祈り」の場面では日本語で唱えた。 30年前にブルゴスを訪れた時、サント・ドミンゴ・シロスの教会までヒッチハイクで辿り着き、初めてグレゴリオ聖歌を生で聞いた。 それと同じような調べで、この聖歌合唱も構成されていて、眼だけでなく耳でも福音に接した日曜日・ドミンゴの朝であった。 教会の門前の土産屋で、その寓画を陶板にした物を気に入って買った。



不惑の決断

 昼食は歩き方に掲載の La Mejiloneraでムール貝の陶板焼き、チーズ・コロッケをシードル酒で味わった。これで4.7 Euro
13:20のバスで16:08 AvilaのRenfe駅に到着。 しかし、なんと次の17:15の特急は4両編成だけの全車指定席だったが、全て売り切れで、今日はもう便が無いという。タクシーでBTに行くと、バスも22時まで無い。路頭に迷う。 駄目もとのプランを考えて、タクシーを拾い、Renfe駅を指示したが、まだ時間があるので、この車で世界遺産の要塞を巡る事にした。 南仏のカルカッソンヌに似てAVILAの要塞WCHの中は土産物屋とファースト・フードが多く、その中を観光客が歩いている。 うーん、これはtaxiで廻るだけで十分だ。

運転手が懸命に解説してくれて15 Euroのチャーター代はお得だった。17:05 Renfe駅に着くと Salamanca行きの特急:AVEが入線していた。 窓口で訊いてもキャンセルは出てない。 私は、キャリーを持ってそのまま乗車した。 無銭乗車で3倍の請求をされても、このままサラマンカに今夜中に到着してないと、宿の予約、行程が全部、無駄になるからだ。 それから、特急のドアで見た車掌さんが思慮深そうな女性だったので、事情を説明出来ると直感したのも、この大胆な行動を裏打ちしていた。 発車しても席に行かずに立っている人が4-5人居たが、10分後には私だけになっていた。 サラマンカまで向かう線路は単線で広大な風景の中、特急が疾走した。
 
ようやく、あの車掌さんが現れた。目礼をした。 「チケット無いのね」「うん、そうなんだ」 「じゃあ、9 Euro」って言っているらしい、、(全部スペイン語)携帯端末から出てきたTicketを貰うと、「席に座りたい?」「えー、あるの」「付いていらっしゃい」と促されて、窓側・進行方向の席に座れた。( まあ、時には、こんな事もあるさ、、※ でも良い子は絶対に真似しないでね、、)
一つ星のBarへ

 18:25 Salamanca駅に到着 流石にスペイン一の大学都市だけあって、駅はCarrefourも併設する駅ビルだ。 TaxiでHostal Italiaに向かう。 ここは大きなビルにある宿泊施設 受付の女性も大変に親切だ。 大きな部屋にキングベッド、そしてバスタブも!これで40 Euroはお値打ちだ。 入浴・洗濯をしてから、宿を出る。 この宿を選んだのは、市場の北側にある Van Dyck通りにある1軒のBarに歩いて行けるからだ。 その店は Tapas Taveleといい、ミシュランで2008年から一つ星を獲得している今注目のBarだ。

 
カウンターに4名、テーブルが3つしかない、誠に家庭的なサイズの店だ。一つ星を冠しても、その姿勢を変えず、一皿が殆ど3-4Euroという良心的な価格を堅持していた。以前、同じ大学都市のボローニャで見つけたエノテカの簡易食堂みたいで、店主の「みんなに旨いもん食わせたい」  そんなオーラが感じられる店だった。

 
明らかにエーリアンである私に店主は優しく英語で応えてくれて、店のお勧めデギュスタシオンを注文した。 ワインはALIONをグラスワインで頼んだ。前菜はアスパラガスのポタージュ、一番皿が鱈のピルピル、二番皿が豚の耳のフライとフォアグラのソテー載せ、三番皿がパルミジャーノを振りかけたイベリコステーキ、ドルチェにソルベ もう最後はコーヒーも入らない位、満腹になった。 これで30 Euroだ。 サンセバスチャンのALONA BERRIと互するお値打ちのBARだった。 

やはり、イベリコの産地を控えるサラマンカ そこの市場の人々を相手にする店の心意気を十二分に堪能した店だった。  あまり良い思いをしたせいか、怖い夢を見た。 でも、夢でだけ、
うなされるなら、明日も怖い夢を見ても良いと、メフィストフェレスのように思った。

コロンブスの青春
3/ May 快晴サラマンカ~セゴビア~マドリッド

6:30起床 宿の外に出るとブルッとする寒さだ。欧州の天気はいつも夏と冬が春にある。マヨール広場に行くが広場はまだ起きたばかり、眠そうな給仕達が椅子を広場に出している。ここの裏手に市場があるので、覗いて見た。 半地下に2階建てで肉屋、魚屋が店を並べている。その中で、一番ディスプレィが地味な店に、主婦が行列を作っていた。 やはり、この市場でも観光客相手と、そうでない店があるのだ。 その店でイベリコハムを品定めした。 最高級のベジョータは流石に高いので、自宅用に300g 友人用にレセボを1kg購入して、200gずつ真空パックして貰った。


鮮度も価格も大満足でサラマンカのお土産として一番喜ばれた。市場を出るとコンパスをノートの上で計測している学生と、それを見守る教師のブロンズ像があった。
 

これが若き日のコロンブスだった。ユダヤの出自のため、人生の荒波を与儀なくされたマイノリティの青年を、大航海へと羽ばたかせたのは、欧州にあって早くからアラブ人の科学(数学、天文学、医学、航海術)の講座を持っていた創立1534年のサラマンカ大学であった。彼はクロアチアから遥々、ここまで留学し、サン・エステバン修道院で寝食を保護されて当時、最先端の航海天文学を身に付けて行ったのだ。 その若き日の苦悩する青年の像が市場の裏に建っているのは何故なのだろう。そのサラマンカ大学に行き、学食で朝食を取った。構内のお店で、18世紀の天文振り子時計のレプリカを息子への土産で買った。(150Euro)

それから新旧カテドラルWCHとサン・エステバン修道院を見てから、宿に戻り、TaxiでBTまで行った。 出発まで20分あったのでBarに行くと、イカフライとトリッパの土鍋があったので速攻で食べた。 飲み物を入れて4 Euro 安い!旨い!早い!の三重丸だった。 13:15 出発 AVILAを経由して Segoviaに16:20到着した。 またTaxiに荷物を入れてセゴビアの街 WCHを回った。
初めに白雪姫の似合うアルカサル城、そしてローマの水道橋を駆け足、、といってもTaxiに乗ってただけだが、スピード観光した。セゴビアのRenfe駅でAVEが停るのは郊外の駅の方だ。 
これボラないかな? 程、郊外に走ってから、
モダンなRenfe駅に到着した。 

マドリッドへ

 実を言うと、この街には来たくなかった。 30年前に来た時は名店ボティンの仔豚でお腹を壊したし、その後の治安の悪さはつとに名高かったからだ。 そんな印象を吹き払ったのがスペイン在住の料理家・丸山久美さんのブログで、今夜はそのお薦めの1軒で最後の夜を地元親父的に楽しもうと画策していた。 18:52 チャマルティン駅到着 SOL駅に移動して Hostal Comercialに投宿荷物を置いてすぐにGOYA駅まで移動して歩いて10分で到着した。


外観は非常に渋い。観光客がまず辿り着けない地域なので、突然の闖入者に、あれって顔で迎えられた。 臆せずにカウンターの席に座ってCAVAを頼むとチョリソーのおとうしが出てくる。 それからハモン・イベリコ・ペジョータを半人前頼んだ。旨いなあ、、とでれでれになる。続いてマドリッド名物のコシードのスープ、それからガリシアのタコを頼んだ。ご当地でない品を最後に頼んだので、少し高くて合計37 Euroだった。  しかし落ち着いた親父度満点の店でマドリッドの夜を締めくくれて満足して宿へ帰った。


マハとの逢瀬
4/ May 快晴 マドリッド~ソウル

  6:00 起床してゆっくりと入浴した。 清々しい気持ちになって王宮に向かった。中央郵便局で息子や友人達への絵葉書を投函した。そこからプラド美術館に向かうと、既に30mもの行列が出来ていた。 9:00 開館と同時に入館した。先ずはベラスケスのラス・メニーナスを見て、プラドに来た事を実感してから、見迷路のような展示室を廻った。ボッシュの悦楽の園の前で日本人ツアーの一団に入り現地ガイドの説明に聞き入る。 やっぱり、静かな部屋で絵と対峙したい!と展示室を彷徨う内に、ひっそりと誰もいない展示室に踏み込んだ。 そこに在ったのが「着衣のマハ」「裸のマハ」だった。ゴヤの筆は傍で見ると亡羊としてるのに、二つの絵を見据える程の距離で見ると、朦朧とした輪郭が視線の先で、立体化して生めかしい幻惑を生んでいる。私は、始めて
ゴヤの凄さを実感した。 


これらの傑作に再会できただけでも、やはりマドリッドに来て良かったと思った。プラドのキヨスクでマハが持っていた扇子の
レプリカを購入してから、後ろ髪を引かれながら、美術館を後にし、近くの海軍博物館で古い海洋地図のレプリカと船員のキーホルダーを買ってから、10:30に宿に戻った。11時チェックアウト 
地下鉄を2回乗り換えてバハラバ空港に到着。心配してたスリ強盗チームも出没しなかった。

空港でスモモの果実酒パチャンを3本買った。 T-2に移動してLHのコードシェアのSpan Airにチェクイン。 重量32kgに膨れた荷物もお咎めなしでソウルまでスルー。 お腹が空いたが機内食がもうすぐなので我慢する。13:55  離陸 しかし、あろうことか機内サービスはSpan Airの規定で有料 サンドイッチが5 Euro! サラマンカのBTならちゃんとした昼食が取れる程だ。 意地でも我慢して、フランクフルトまでの2時間を耐えた。 16:55 Frankfult着 すぐにソウル行きに乗換え出発 隣に座った韓国美人は230日間かけてヨーロッパを隈なく旅してきた。女の一人旅様々な武勇伝を聴いていると時間も忘れ、あっという間でソウルに到着した。

旅のベクトル
5/ May 快晴 ソウル~東京

11:35 ICN 到着 着陸 80分前に朝食を食べていたにも関わらず、空港に着くなり、あの職員食堂に駆け込んだ。 今度はビビンバに加えて、冷麺も頼んだ。このビビンバと、スパンエアーの、あの痩せたサンドイッチが同じ値段なんて許せないとブツブツ言いながら口一杯の口福を感じた。
AREXで金浦空港まで行き、荷物を預けてから、ソウル駅に行き、ロッテマートで海苔を買ってEMSで親戚に送った。惣菜をあれこれ買ってから空港に舞い戻り、20:20発のJL機で 22:30 羽田空港に到着した。私の旅は無事に終わった。


レオンで会った巡礼者は、今、何処まで辿り着いたかな、  旅とは 外側の発見だけでは無く、自分自身の内省への旅でもあるんだな、、とその颯爽な後姿を思い出していた。

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