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2010/09/02 10:09:55
最近の若いイタリア人女性はレッテリーネ、ヴェリーネと呼ばれるショーガールになりたがる子が多い。どういう職業の人達かというと、夕方位からはじまるクイズ番組やお笑い番組に登場し、肌を露出した衣装を着てメインゲストや司会者の横に立ち、笑顔を振り撒いたり、テーブルの上でセクシーダンスをする人達である。
ハンカチくらいの大きさの布でつくった衣装を身に付けたこのヴェリーネ達は、最近では若い女性から美の象徴と注目され、流行の最先端をいく女性として持て囃されている。この子達は、若い男性に限らず、若い女性、年配の女性の間でもかなり人気がある。
この子達はテレビの公開番組で選考される。ミスイタリアの選考会に似ていて、美しさのほかに歌や踊りの評価も加わるが、歌に関していえば風呂の中で歌う“鼻歌”のレベルだし、踊りは“ディスコダンス”程度のものだ。
視聴者は何が楽しくてこういう番組を観るのだろうか?これ以上短くならない程短いスカートをはき、テレビカメラが向けられるや否や、満面に笑顔を浮かべウィンクをする女の子達を見て何が楽しいのか?
私はといえば、こんな女の子達を見るたびに胃がムカムカするので、胃薬を一錠飲まなければならない。こういう子達のほとんどは、有名な舞台芸術家の名前すら知らない。できることといえば、ウィンクし、お尻を振りながら踊ることぐらいだ。声だって全く響かないし、演技も踊りもズブの素人同然なのに。
しかしながら、私の彼はこの女の子達の動きを細部に到るまで注目し、テレビに釘付けになる。よって私は二錠目の胃薬を飲む。
私は週に一度胃薬を2箱買う。薬局の売り上げを伸ばそうと躍起になっている薬剤師は、私の来訪を今か今かと待っている。生計を立てるのも楽ではない。
作:ソニア 訳:喜代美(BUONO ITALIAに投稿した本人の記事より抜粋)
2010/09/01 03:09:17
路線バスは、スカートがきもちいい。
あまり期待していなかった恋人岬は行ったらびっくり。ビーチのエメラルドとは違う純ブルーを一望できました。
とにかく現地の人が面白かったのと海がきれいだった、これにつきます。
2010/08/31 04:08:19
ギリシャの中で一番行きたかった場所・メテオラです☆
メテオラの修道院は、ビザンチン時代後期およびトルコ時代に
迫害を受けたキリスト教修道僧たちが作った聖域。
不毛の人を寄せつけない高さ400mもの岩山に、ビザンチン芸術の中心を築き上げたのだそうです。
15世紀から16世紀にかけて最盛期には24あった修道院も、
今では5つの修道院にしか人が住んでいません。
今でも人が住んでるだけすごいと思いますが・・・
宗教的にかなり神聖な場所ということで女性は
体のラインの出る洋服は×
ズボンは禁止でした。
私は事前に知っていたのでそのような格好で行きましたが
修道院の入り口でズボンをはいている女性には長い
巻きスカートをレンタルしてました。
断崖絶壁でヒヤヒヤもしましたが自然が作り出した
岩山の奇形な風景と人類の意地のような修道院の景色が印象深いです。
2010/08/29 02:08:11
<2002年12月13日(金)>
<MRT木柵線の南端、北端駅へ>
日本を発った時の計画では、この日も故宮博物館へ行って、写真の続き撮影をする予定でした。しかし、昨日、撮影が禁止になったことを知りましたので、急遽、台中へ向かう事にしました。もとより、計画らしい計画ではありませんから、その時の気分、風任せの旅です。
台中へ向かう前にMRTの残りの路線を走破する事にしました。その手始めに木柵線の南端と、北端駅を目指しました。最初の乗車駅はホテルの最寄駅、忠孝復興駅です。この日、台中見学に出かける予定でしたが、一日乗車券を買い求めました。
南端は動物園駅です。木柵線は高架部分なので、途中、車窓からの景色を楽しむ事ができました。最初はビルの谷間を縫うように走っていましたが、やがて田園風景に変わってきました。
トンネルを潜ると一段とその傾向は強まり、『辛亥(しんがい)』駅では、遠くにたくさんの墓が建っているのを見かけました。最初は、街並にしては少し様子が変だと思い、目を凝らしてみましたら、傾斜地に立つお墓の群れでした。中には立派な墓も有り、ひょっとしたら、辛亥革命の犠牲者が祀られているのではないかと想像してみました。途中、何箇所か墓地のような所を遠望しました。
<動物園駅、中山国中駅>
木柵線の南端駅は台北市立動物園です。この線路の名前になっている『木柵駅』は、その1つ北にありました。中国語では『ムーチャ』と発音するようです。『木のムー』は、日本語の訓読み『モク』が連想できますし、『柵のチャ』は、同じように『サク』を連想できます。
因みに、新交通システムMRTで最初に開通した線路が、この木柵線です。1996年3月のことだと言います。地下鉄部分を含め、出来て間もない線路です。初乗り料金は20元です。その後は、5元刻みの料金体系になっています。
木柵線はカーブが多いためか、4両つなぎの車両はそれぞれ独立していて、走行中はその間の行き来は出来ません。ガイドブックによれば、一両は13mに満たないと言います。この小回りの利く車両が走る区間は、完全自動運転の10.5kmです。
朝の早い時間でしたが、動物園駅では先生に引率された生徒の一団を見かけました。社会科の授業の一環でしょう。公園の前の広場で整列した後、入場していきました。
動物園駅から動物園までは僅かの距離です。途中、歩道には大型動物の足跡が表示してありました。白い歩道石に、黒色のシルエット(?)が嵌め込まれていました。多分、ここを訪れるお子さん達の学習用のものなのでしょう。少しデフォルメされているようでしたが、大きさ、形は実物をモデルにしているのに違いありません。
動物園には入場せず、その前で引き返し、中山国中駅行きのMRTに乗りました。終点駅なので、高架の上には駐車中のMRTも見かけました。南下した列車が到着しますと、間も無く乗った電車は、北に向けて出発しました。終点駅までは、11区間です。
中山国中駅は、ビルの中の駅です。この一帯は文教地区であり、多分、駅名は『中山国立中学校』に因んでいるのでしょう。後で地図を調べましたら、駅の直ぐ西に、学校マークの『中山国中』がありました。
<栄星花園、行天宮>
中山国中駅で降りた後は、徒歩で行天宮に向かいました。1kmもない距離と見当をつけたからです。西北方向に見当を付け、おおよその距離感を頼りに、適当に街中を歩きました。
最初にたどり着いたのは『栄星公園』でした。何かイベントが行われているらしく、白いテントが並んでいました。公園の中は、真っ青な芝生の中に色とりどりの花が咲き乱れていました。満開のサルビアなどに、一瞬季節が戻ったような錯覚を覚えました。 地図には『栄星花園』とも記載されていて、花壇が素晴らしい理由が分かりました。ゆっくりする余裕はありませんでしたから、公園の南側だけを通過しました。目的地の行天宮までは、半分ほど歩いた距離です。
行天宮の事をガイドブック頼りに少し解説します。祀られている主神は三国志の名将『関羽』です。商売の神様でも有り、庶民の参詣が絶えないお寺だと言います。その日も龍山寺と同じように、線香の煙が絶えませんでした。青い法衣の女性の方が、束にした線香から3本を選分けて参詣客に渡していました。この方を『収驚(ショウ テン)』と呼びます。無料で『おはらい』もしてくれると言います。収驚は信者のボランティア活動であるようです。
主神の関羽のほか、南宋の武将『岳飛』、かまどの神『司命火土君』も祀られています。ガイドブックに創建の日時が記してないのは、比較的新しい神社であるためかも知れません。建物も、全体に新しく感じました。主神が商売の神様と言う事で庶民の信仰が篤く、繁盛しているのでしょう。果物屋さんの店先と見紛うほどの、お供えの果物が並べてありました。
独特の反りと飾りを持った屋根は、中国の寺院建築独特のものです。シルエットも素晴らしく、色んな角度から写真に納めて、このお寺を後にしました。
<台中へ>
行天宮からは、MRT淡水線まで更に西に歩きました。目的地の民権西路駅まで1km程度の距離でした。台北駅の3つ北の駅です。ここまでくれば、台北駅は直ぐ近くです。
予め台中往きの下調べをしていましたので、ホテルのメモ用紙を利用して、筆談で切符を買う事にしました。『台北→台中 自強』と書いて500元差し出しました。男性の駅員さんは、直ぐにうなずいて、台中往きの切符と125元のお釣を出してくれました。11時10分発、13時26分台中着の座席指定券、片道2時間16分の一寸した小旅行です。
切符に印刷してあったのは、5号車の40番席です。自動改札券ではなく、鋏を入れて貰って入場することになります。発車の時刻まで、まだ30分以上時間がありました。早速、国鉄(?)駅構内の売店で缶ビールを買って、時間を潰しました。お昼を食べるには、まだ早すぎる時間でした。
缶ビールを買ったコンビニのような店には、駅弁も売っていました。しかし、サンドイッチと、揚げ物主体の弁当のようでしたから、台中に着くまで我慢することにしました。
MRT車内は勿論、構内も飲食禁止、罰金1500元なので、付近に張り紙が無い事を確認してから缶ビールを飲みました。買う時には『タイワン ビール』で通じる事が分っていましたが、コンビニ形式なので、ストッカーから自分で持ってきた品を黙って差し出すだけで済みました。
プラットホームは電光掲示板で探しました。広い構内に人影が少なく、台湾鉄路局が運営する国鉄路線はりローカル線?と思ったのが失敗でした。台中からの帰りには、満席のため指定券がとれずに、2時間半あまりを、立ち放しと言う、労苦を強いられました。
<台中到着>
往きは、予定の時刻に台中に着きました。帰りは徐行運転、一時停車で、大分遅れましたので、台湾のダイヤが正確かどうかは、俄に判断できません。それでも、以前中国では、『2時間以内の誤差は諦めてください』と聞いていましたので、それに比べれば、『ダイヤは極めて正確』と言った方が当たっています。
朝方、台北では雲が多かった空は完全に晴れ上がりました。台中では申し分の無い好天となっていました。着ていた上着を脱ぎ捨てたいほどの陽気でした。駅前では大掛かりな櫓を組んで、若い人達の野外パフォーマンスが演じられていました。
駅弁を買いませんでしたから、最初は腹ごしらえの店探しです。駅前付近を捜しましたが、それらしき店は見当たりませんでした。それで、もう一度駅に戻って構内を探しましたら、駅に隣接した場所に食堂がありました。メニューが有り、麺を頼みましたら、
『売り切れました』
と、若い女店員さんが仕草で教えてくれました。
『その代わり弁当はあります』
と言った仕草をされました。私は中国語が話せませんが、ボディランゲージは理解できます。その弁当を注文しました。食堂とコンビニが併設になっている、セルフサービスの店でした。それでも、先ほど注文を聞いてくれたレジの方が、私の席まで弁当を持って来てくれました。
こちらも『これでOKです』と言った仕草で料金を払いました。終始、笑顔で対応してくれましたので、こちらも笑顔で余裕を持って注文する事が出来ました。店の売り子さんではなく、スーツを着こなした女性マネージャーと言った身なりの方でした。
テーブル席を確保した後、奥の戸棚から缶ビールを探してきて、追加で料金を支払いました。ノートに缶ビール30元とメモしておきました。弁当は中華料理風の味付けで、値段は安かったものの、たっぷりのボリュームがありました。ご飯のほかには、野菜のうま煮、豆類、魚とステーキ等が入っていました。
セルフサービスの店ですが、置き忘れた食器類は、エプロンを掛けた若い店員さんが後片付けしていました。食べ終わった後、分別収集用の塵箱の位置が分かりましたので、缶と燃える塵とを分けて入れて、店を出ました。
<台中の街>
16時くらいの電車で台北に戻ろうと考えましたので、2時間程を市内見学に当てました。最初は駅近くの市場方面です。その市場は地図には載っていない『普聖宮』近辺にあるようでした。看板を頼りに探してみましたが、結局『普聖宮』は分らず仕舞いでした。市場の方は、せりが終わった後でした。
途中、車の行き来が多く、ひやひやしながら道を歩きました。駅の北側を東方向でした。市場の外れには、軍施設があり、若い兵隊さんが門付近の道路の清掃をしていました。市場の外れまで来て、1本北側の広い道路に出てみました。ここからは、遠くに山並みが見えました。この辺りは公園になっているらしく、緑の多い一帯でした。
あまり見るべきところがありませんでしたから、一旦、台中駅に戻りました。その後、駅前の地下道を北に抜けて繁華街と思しき方向へ向かいました。
予想したとおり、駅北方面には、商店街やオフィス街と言った一角がありました。しかし、平日の午後と言う事もあって、賑わいがある場所には行き会いませんでした。多少、人だかりがしていたのは、新しく売り出されたと思われるゲームソフトの店先でした。
台中の街で気が付いたのは、古いタイル張りのビルの壁が剥がれ落ちていた事です。複数のビルを直ぐに見つけることが出来ました。先年襲った大地震が原因ではないかと推測しました。台北に向かう機中で、台中に住んでいると言われる、隣席の女性の方が語ってくれた大地震のことです。
<帰りは立席で>
18時頃には台北に戻りたかったので、予定通り16時頃に台中駅に戻りました。駅は結構混んでいて、どの窓口も5、6人は並んでいました。自分の番になりましたので、台北駅の時と同じように、『台中→台北 自強』と書いて差し出しました。しかし、今度は直ぐにうなずいてはくれませんでした。席を立ったり座ったりの仕草で、何かをこちらに伝えようとしているようでした。
それでもうまく伝わらなかったので、日本語が分る駅員さんを呼んできました。
『台北まで立ち席になりますが、それでも良いですか?』
と言う事でした。普通電車で戻るわけにもいかないので、了解して切符を買いました。切符には座席番号の代わりに『無席』とだけ記されていました。料金は指定の場合と同じ375元でした。先程の駅員さんのボディランゲージは、日本で言う『立席』、切符に記された『無席』の意味だった事がその時分かりました。
台北行きの電車は、予定通りの時刻に台中駅を出発しましたが、台北駅が近づくと、徐行運転、一旦停車の連続でした。結局、20分から30分遅れとなりました。18時の予定が18時半過ぎに台北駅に到着しました。
それにしても、立ちっ放しの2時間半余りは長かった。最初のうちは車窓からの写真をとりながら気を紛らせていましたが、次第に撮りたい景色も少なくなってきました。立っていたのは閉店されたビュッフェでしたから、丁度いい高さのテーブルにもたれる事が出来ただけ、幸いでした。客室に立っている人もいましたが、このビュッフェには20人以上が立ちっ放しでした。仕事の帰りと言ったサラリーマン風の人や、学生さんたちが多かい帰りの便でした。
明るい内に台中を出発した列車は、台北に近づくと日が落ち、辺りは真っ暗になってしまいました。台中駅に着いて直ぐ、帰りの切符を買って置けばよかったと言う反省は、後の祭でした。しかし、気侭旅でのこれくらいのトラブルは、もとより承知の上なので、1つの経験としておきます。往きに空いていたので、帰りも同じだろうと思ったのが、いけませんでした。
<今度は行きたい台中の名所>
無計画の台中旅行でしたから、肝心の名所は何処にも立ち寄っていません。駅前付近の散策だけでした。今度は行ってみたい、台中の名所は、次のようなところです。
先ず、日月潭です。機中でご一緒になった台中の女性の方も、一番勧めてくれた名所です。海抜746mにある自然湖の夕陽が素晴らしいと言います。しかし、
『台中から日帰りでは駄目です。1泊が必要です』
と、教えて貰っていました。距離でも、台中から東南に76kmの位置にあります。その人にガイドブックの『金色の弥勒菩薩像』の写真を見せましたら、
『観光用に新しく出来ました。こちらは余りお勧めできません』
とのご返事でした。次に行ってみたいのが、国立自然科学博物館当たりです。大きな温室もあるらしいので、ひょっとしたら、珍しい蘭に出会えるかも知れません。植物園の情報も質問しましたが、
『植物の事に詳しくないので、台中に植物園があるかどうか分りません。でも、台北に比べると平均気温が高く、気候のいいところですから、きっとあるに違いません』
とも、お聞きしていました。
<今日も馴染みのお店で>
台中からの帰りが遅れましたので、席が空いているか心配でしたが、幸い私の定席は空いていました。今日も色んな料理と紹興酒1本、麦酒1本を頼みました。これがこの店でのお決まりパターンになりました。素早く料理してくれますし、ボリュームたっぷりです。
昨年の時のこともあり、そろそろ日本へ帰る日と察したのか、店のママがデザートにサービスの蜜柑が出してくれました。お腹一杯で、食べる余裕が無かったので、一切れだけを頂いてお礼を言って店を後にしました。『ニーハオ』以外には、唯一の中国語に近い『シェ シェ』がお礼の挨拶です。
2010/08/28 08:08:55
<2006年12月14日(木)>
この日のメモです。モーニングコール7時、出発8時30分でした。昨晩ホテルへ戻ったのは22時頃、それから麦酒を飲んで部屋へ戻りましたので、十分に睡眠が取れました。モーニングコールの前に仕度を済ませて、早めに食堂へ向かいました。プラハでも2連泊ですから、朝の荷物出しの慌しさがないのが、有難いことです。
いつもの旅行ですと、リュック一つの軽装ですが、ヨーロッパ内での保安検査の厳しさを考えて、今回はスーツケース持参としました。外出の時だけ、小さなリュックに切り替えです。朝食の後も、時間がありましたので、ホテル界隈を散歩してきました。
<プラハ城へ、朝のラッシュ>
予定通り8時30分イホテルを出発しました。向かった先は、距離では1キロほどのプラハ城です。昨晩、プラハ城の夜景を見ようとも考えましたが、市街地の暗さに、歩くのを諦めました。
朝の時間は、プラハでも交通ラッシュがありました。しかし、クラクションが鳴り響くような、殺気立ったものではありません。こちらでは、昼間でもずっとヘッドランプを点けていました。
渋滞はあったものの、1キロほどの近距離です。程なくプラハ城へ到着しました。開門は9時からだったらしく、ほんの少しの時間でしたが、城門前で待つことになりました。壁には蔦が生い茂り、展示会の大きなポスターが貼ってありました。
空に目を遣りますと、白い飛行機雲が立ち上がっていました。昨日降り立ったプラハ空港を飛立った飛行機のもののようでした。正式名称は、ルズィニエ国際空港と呼ばれています。日本の秋の空を思わせる澄み方でした。気流が安定しているのか、その飛行機雲は、細いまま、中々消え去ることはありませんでした。
<プラハ城>
他にも開門を待つ団体客がいましたが、混み合うほどではありませんでした。石畳の広い通路を通って中庭へ出ました。通りの脇には石造りの家が両側に並び、一定間隔で街路灯が並んでいました。昔は、ランプだったでしょうが、今は電球に代わっていました。中庭で、簡単な説明をお聞きした後、暫く自由時間となりました。
その自由時間を利用して、中庭に面した建物の写真を撮って回りました。プラハ城は王宮と寺院が複合した建物群です。中庭に面した一番高い塔が、聖イジー教会でした。お城の中の寺院だけあって、実に堂々とした造りです。百塔の街と呼ばれるプラハの代表的な尖塔でした。
ここで、プラハ城のことについて、インターネット情報などを参照しながら簡単に説明しておきます。プラハの街の歴史は、6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ(モルダウ)川河畔に集落が形成されたことに始まります。973年にキリスト教の司教座が置かれた後、ユダヤ人の入植が始まりました。しかし、その後の幾度かの戦火で、プラハの街は荒廃してしまいました。
プラハの街が再び盛んになったのは、1346年にボヘミア王、カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となり、神聖ローマ帝国の首都が、プラハに移されたことによります。
この時、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展し、「黄金のプラハ」と形容される程に栄えました。
プラハ城のことに戻ります。最初の建築物は、870年の聖母マリア教会でした。 聖イジーと聖ヴィートのバシリカ(長堂式建築)は、10世紀の前半に建設されました。ボヘミアで最初の修道院は、城の中、聖ジョージ教会の隣に建設されています。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことです。
14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世の時代に、王宮がゴシック様式で城砦として再建されました。聖ヴィートのロトンダ(円形建築)とバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されましたが、完成までには、ほぼ6世紀かかっています。ギネスブックによりますと、世界で一番古く、一番大きい城とされます。長さは約570m、平均の幅は約130mあります。現在は、チェコ共和国の大統領府として使用されています。中庭で衛兵の姿も見る事ができました。
大統領府以外には、城内の大部分は観光客に開放されています。現在、国立美術館ボヘミア・バロック部門、国立美術館ヨーロッパ絵画・中世部門、チェコの歴史について展示する国立歴史博物館、おもちゃ博物館、ルドルフ2世の収蔵品を基にしたプラハ城絵画美術館等があります。中庭での撮影の後、ゆっくりと時間をかけて、いくつかの建物内の見学ができました。
<聖ヴィート教会>
現在見られるゴチック様式の大聖堂が建てられるまでの経緯を、インターネット情報を参照しながら、簡単に記しておきます。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ大聖堂」です。プラハ城の中にあって、多くのボヘミア王の墓を守っています。この大聖堂は、プラハ大司教の主座であり、チェコで最も大きくて重要な教会とされます。
現在ある場所に大聖堂が最初に建てられたのは、925年のことです。ボヘミア公のヴァーツラフ1世によって初期ロマネスク様式のロトンダ(円形建築)が建設されました。 聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフがヘンリー1世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからです。
1060年にはプラハに司教区が置かれました。小さなロトンダでは多くの信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ2世は、大規模な教会の建築に乗り出しました。典型的ロマネスク様式の大きなバシリカが、同じ場所に建設されました。
そして、現在のゴシック様式の大聖堂は、1344年に完成しました。これよりプラハ司教区は大司教区に上げられました。その後援者には、大聖堂の首席司祭をリーダーとする参事会、パルドゥビツェのアルノスト大司教、とりわけボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝にもなったカレル1世が挙げられます。彼は新しい大聖堂を、即位式を行う教会、一族の地下納骨堂、王国で最も貴重な遺物の保管庫、そして守護聖人ヴァーツラフの最後の休息地であり巡礼地となるよう取り計らいました。
15世紀後半のフス戦争で、建設は中断され、大聖堂の内装はフス派の聖像破壊運動によって、かなり被害を受けました。さらに、1541年の大火が大聖堂にひどい損壊を与えました。
修復と建築の再開は、1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会に始まります。同年に、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、著名な建築家達により、着実に工事が進められました。
現在見ることができる内装やステンドグラスには、目を奪われました。20世紀に入りますと、チェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、北部の窓を新しく装飾しました。 バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされました。この入り口上部のバラ窓(写真右)は、聖書の創世記のシーンを表しています。
幾多の困難を乗り越えて、聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年に聖ヴィート大聖堂は遂に完成しました。完成までには、既に紹介しましたように、約600年が費やされました。
<黄金小路>
黄金小路は有料です。しかし、ここを通らなければカレル橋方面へは、行けないようですから、仕方ありません。ただし、小銭の範囲でしょう。今回は、ツアー代金に含まれていました。
その黄金小路は、16世紀の小さな家の集合体です。もとは衛兵の住宅として建てられ、その後は最下層の人々の住居として使われたようです。「黄金小路」の名称は、錬金術師の仕事場であったとする伝承があります。しかし、錬金術師の実際の仕事場は別の場所だったようですから、余り確かな話ではありません。
ところで、この黄金小路では、「変身」の小説で有名なカフカも、ここの一軒を借りて小説を書いたそうです。これは確かなことで、それに関する展示もあります。
『ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドの中で自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた』とは、『変身』の重要な一場面です。カフカの創造力を持ってすれば、確かにこの狭い家なら、朝起きて巨大な毒虫になっていても不思議はない感じがします。
ところで、1階には、お洒落な土産品店が軒先を並べ、小物の買い物にはお勧めのスポットです。2階には中世の甲冑、刀剣類の展示品が、ぎっしりと並んでいます。
<カレル橋>
プラハの旧市街全体が、世界文化遺産に指定されていますが、その中でも重要な建築物の一つがカレル橋です。1357年、カレル1世が、若干27歳の天才建築家ペトル・パルレ-シュに命じて、60年の歳月をかけて完成させました。
カレル橋は、プラハ城の見学の後、黄金小路を通って南側に下り、歩いてやって来ました。大した距離ではありませんでした。カレル橋の上からは、フラッチャニの岡の上のプラハ城を見渡す事ができました。
カレル橋は、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。橋が完成したのは、1400年のことです。その後、1841年までプラハ旧市街と、その周囲をつなぐ唯一の橋でした。また、西欧と東欧の交易ルートとして、プラハが重要な地位を占めるようになりました。 最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが、現在のようにカレル橋と呼ばれるようになったのは、1870年のことです。
橋の長さは516メートルで幅は10メートルあります。また、16連のアーチから構成されています。また橋を守るため、3つの塔が建てられています。旧市街側の塔は、ゴシック様式の名建築として有名です。その橋の袂の傍らにカレル1世のブロンズ像がありました。
橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その多くはバロック様式です。全てが聖人像です。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れると言われ、多くの人に触られたため、つるつるになっています。国の東西を問わず、同じような発想、風習が存在するようです。
ところで、インターネット情報で目にしたことですが、1620年11月8日、ビラ・ホラ(白山)で神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世軍と戦った新教徒のボヘミア軍は大敗北を喫し、首都プラハはハプスブルク帝国軍に占領されてしまいました。26人のプロテスタント指導者が、旧市街広場で処刑され、その内の12名の首が、10年間に亘ってカレル橋の旧市街塔に晒されたと言われます。
中でも、医学者でカレル大学の総長イェセンスキーは、生きたまま切り落とされた「舌」が、処刑後の首の横に置かれたとされます。1631年11月20日、プロテスタントの軍隊がプラハを奪還した後に、27人の葬儀が行われ、ティーン教会に埋葬されました。宗教戦争の恐ろしさは、私には中々理解できない部分もあります。
<昼食、プラハ市内見学>
カレル橋の見学の後、昼食の時間となりました。メニューは、チキンのローズマリー・ソースです。水代わりに、白のグラスワインを注文しました。そのお店は、旧市街の市庁舎前を通って、さらに東方面に歩いた場所でした。残念ながら、写真は撮り忘れました。
昼食のお店に向かう途中にあった旧市街広場は、歴史的建築物に囲まれた、世界遺産に指定された中心部と言うべき、一角でした。とりわけ、からくり時計の旧市庁舎、2、3階がプラハ国立博物館になっているキンスキー宮殿、その横にある石の鐘の家、80mの尖塔を持つティーン教会など目白押しです。
広場の中央には、ローマ教会の堕落を批判して、火あぶりの刑にあったヤン・フスのブロンズ像がありました。おりしもクリスマスを控えていましたので、市が立っていました。夜になれば、灯りが点り、賑やかになりそうな雰囲気でした。市は既に開いていましたから、昼間でも、結構人出がありました。
<プラハ郊外、メルニック城へ>
午後の見学地はプラハの北方、モルダウ川の上流にあるメルニック城でした。カレル4世がこの街を庇護したことから、皇帝の町と知られるようになりました。
カレル4世の最後の后は、このお城に住まい、ゴチック様式の礼拝堂を所有していました。このお城には、14世紀から続いていると言うワインセラーがあるそうです。有料ですが、テスティングが出来るようです。残念ながら、今回はテスティング出来ませんでした。ワインと言えば、フランス、イタリア、スペインの方が先に浮かびますが、オーストリアワインも中々のようです。
メルニック城は、現在は個人所有になっているようです。現地ガイドさんの説明ですと、ホールの貸し出し等も行っているようです。外観からは、少し地味なお城ですが、室内は手入れが行き届き、什器類も充実していました。
紙数の都合で、多くの写真を掲載することは出来ませんでしたが、ロココ風のテーブルセット等は見応えがありました。また、直ぐにでも大きなパーティが開けるような、食器類の配置等の演出も見事です。壁には歴代当主の肖像画が飾られ、荘厳な雰囲気もありました。全体としては、当時の貴族生活が垣間見られる古城見学でした。
このメルニック城のもう一つの見所が、お城の一角から眺めるモルダウ川とエルベ川の合流点の景色です。お城の直ぐ下に、その光景を眺めることが出来ます。案内標識にもエルベ川とヴルタヴァ(モルダウ)川が記してありました。
この日は風もない穏やかな日でしたから、鏡のようなモルダウ川に辺りの景色が逆さに映り込んでいました。
<旧市街広場のクリスマス市>
メルニック城の見学を終えて、プラハ市内に戻った頃には、灯りが点る時間となっていました。昼間、見学をした旧市庁舎付近のガラス工芸品店の前に戻ってきました。ここで解散となり、6時半に再集合となりました。その後で、黒麦酒の夕食の予定となっていました。
解散の後、直ぐに旧市街広場へ向かいました。既にクリスマスの市の灯りで溢れていました。昼間は余り気に留めなかったクリスマスツリーは、青い発光ダイオードで、一際目立つ存在になっていました。
ところで、こちらでのクリスマスは、日本とは違うようです。12月24日がイブではなく、年が明けた1月7日が、クリスマスイブ、復活祭とお聞きしました。お祭には、今も旧暦を使っていますから、年によってイブの日が変わっているようです。
広場を取り囲む歴史的な建造物もライトアップされ、昼間とは違う光景となっていました。最初に見学したのは、旧市庁舎のからくり時計です。定時近くなっていましたから、大変な人だかりでした。鐘が鳴る中で、12使徒の行進が始まりました。
80mの尖塔を持つティーン教会は、白色系統のライトアップでした。クリスマス市の露店の赤色系統のライトアップとの対比も見応えがありました。昼間は白い外観だった聖ミクラーシュ教会は、オレンジ系統のライトアップとなっていました。
この後、市街散策をしながら、この広場以外でのクリスマス市などもカメラに収めました。約束の集合の時間の30分前には、旧市街広場まで戻ってきましたが、そこからのガラス工芸店までの道が分からなくなってしまいました。広場から放射状に道が伸びていて、記憶していた道が違っていたためでした。
<ホテルから電話、生ビールの夕食>
いくつかの道を行きつ、戻りつしていましたら、あっという間に30分が経ってしまいました。その間何度も、お聞きしていた番号に、携帯で電話をかけました。しかし、途中で切れてしまいました。うっかりしていたのが、持参した携帯が使えなかったことです。広場の公衆電話も使いましたが、これも繋がりませんでした。国際電話の番号だったためです。
それで、合流するのは諦めて、泊まったホテルから電話を掛けることにしました。タクシーは直ぐに見つかり、ドルが使えるかどうか確認しました。タクシーは、少し遠回りをしたようです。20ドルを請求されました。
ホテルの1階には国際電話がありませんでしたから、部屋に戻って、やっとガイドさんへの連絡が付きました。合流できなかった事をお詫びして、ホテルのバーで生ビールを飲みました。冷汗でもビールは美味でした。
プラハ城で
衛兵の列は無言で通過ぎ後姿の銃剣光る
聖ビート教会で
王宮の中に聳る教会に光を透す基督縁起
黄金小路で
中世の武器庫に似たり二階家の石の畳の黄金小路
カレル橋で
聖人はカレルの橋に整然とモルダウ川を船下り行く
メルニック城で
肖像画見下ろすロココの大広間晩餐仕度されし卓上
プラハのクリスマス市で
暖冬のプラハの街に雪は無く降誕祭の屋台居並ぶ
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