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スカート キッズデスク・ベッド・布団に関する旅行記

100%イタリア人ソニアの日記 6 ~ショーガール~...

2010/09/02 10:09:55

最近の若いイタリア人女性はレッテリーネ、ヴェリーネと呼ばれるショーガールになりたがる子が多い。どういう職業の人達かというと、夕方位からはじまるクイズ番組やお笑い番組に登場し、肌を露出した衣装を着てメインゲストや司会者の横に立ち、笑顔を振り撒いたり、テーブルの上でセクシーダンスをする人達である。

ハンカチくらいの大きさの布でつくった衣装を身に付けたこのヴェリーネ達は、最近では若い女性から美の象徴と注目され、流行の最先端をいく女性として持て囃されている。この子達は、若い男性に限らず、若い女性、年配の女性の間でもかなり人気がある。
この子達はテレビの公開番組で選考される。ミスイタリアの選考会に似ていて、美しさのほかに歌や踊りの評価も加わるが、歌に関していえば風呂の中で歌う“鼻歌”のレベルだし、踊りは“ディスコダンス”程度のものだ。

視聴者は何が楽しくてこういう番組を観るのだろうか?これ以上短くならない程短いスカートをはき、テレビカメラが向けられるや否や、満面に笑顔を浮かべウィンクをする女の子達を見て何が楽しいのか?

私はといえば、こんな女の子達を見るたびに胃がムカムカするので、胃薬を一錠飲まなければならない。こういう子達のほとんどは、有名な舞台芸術家の名前すら知らない。できることといえば、ウィンクし、お尻を振りながら踊ることぐらいだ。声だって全く響かないし、演技も踊りもズブの素人同然なのに。

しかしながら、私の彼はこの女の子達の動きを細部に到るまで注目し、テレビに釘付けになる。よって私は二錠目の胃薬を飲む。

私は週に一度胃薬を2箱買う。薬局の売り上げを伸ばそうと躍起になっている薬剤師は、私の来訪を今か今かと待っている。生計を立てるのも楽ではない。

作:ソニア 訳:喜代美(BUONO ITALIAに投稿した本人の記事より抜粋)

GUAM...

2010/09/01 03:09:17

路線バスは、スカートがきもちいい。
あまり期待していなかった恋人岬は行ったらびっくり。ビーチのエメラルドとは違う純ブルーを一望できました。
とにかく現地の人が面白かったのと海がきれいだった、これにつきます。

★1年のうち360日は晴れるという太陽の国ギリシャへ③~M...

2010/08/31 04:08:19

ギリシャの中で一番行きたかった場所・メテオラです☆

メテオラの修道院は、ビザンチン時代後期およびトルコ時代に
迫害を受けたキリスト教修道僧たちが作った聖域。
不毛の人を寄せつけない高さ400mもの岩山に、ビザンチン芸術の中心を築き上げたのだそうです。
15世紀から16世紀にかけて最盛期には24あった修道院も、
今では5つの修道院にしか人が住んでいません。
今でも人が住んでるだけすごいと思いますが・・・

宗教的にかなり神聖な場所ということで女性は
体のラインの出る洋服は×
ズボンは禁止でした。
私は事前に知っていたのでそのような格好で行きましたが
修道院の入り口でズボンをはいている女性には長い
巻きスカートをレンタルしてました。

断崖絶壁でヒヤヒヤもしましたが自然が作り出した
岩山の奇形な風景と人類の意地のような修道院の景色が印象深いです。

2010 初夏のヨーロッパNo.7☆赤ずきんちゃんの故郷シュ...

2010/08/27 04:08:51

「赤ずきんちゃんの故郷・シュヴァルムシュタット」。
地球の歩き方に赤ずきんちゃんの行列の写真が載っていて、「可愛いー、行ってみた~い♪」と思ったのはもう4年も前のことです。

毎年5月か6月に、シュヴァルムシュタットのツィーゲンハインというところでは、「ザラート・キルメス」というお祭りがあります。
木組みの家々が並ぶメインの通りを人々が民族衣装をつけて行進をします。
このとき、小さな女の子のつける衣装がとても可愛く、ふわっとしたスカートと白いエプロン、それに赤いコップのような帽子を頭に載せます。これがなんとも言えず愛らしく、「赤ずきんちゃんの故郷」と言われている由縁なんでしょう。

4年前、ちょうどこの祭りの時期に訪独する機会に恵まれ、赤ずきんちゃんに会いたいと思いました。ところが、調べていくうちにこのツィーゲンハインという所は、もよりの鉄道の駅がなく、しかも日曜日にはバスも運休になるなど、短時間で簡単には行けないことがわかりました。

同じ頃、ローテブルクでは、中世の時代衣装を着けてパレードする「マイスタートルンク祭り」が開催されておりました。
両天秤にかけた結果、赤ずきんちゃんに心を残しながらも、こちらの方に行くことにしました。

あれから4年、今度いつこの時期にドイツに来れるかわかりません。
今回はどうしても赤ずきんちゃんに会いたい!
この覚悟で時間をたっぷり取ってやってまいりました。

杭州・西湖、春爛漫、龍之介に誘われ、西施と遊ぶ...

2010/08/25 11:08:35

  
              行く春や 西施晴のち 雨に遇う
  
  今回のこの旅に、僕を誘ってくれたのは、まずは、芥川龍之介が、90年ほど前に書いた紀行文【江南游記】である。もうひとつは、西湖に行けば、ひょっとして西施に会えるのではないかという、僕のいつもの思い込みである。

  芥川は、1920年(大正9年)5月に、中国を舞台とした短編小説【杜子春】、【南京の基督】を発表している。翌1921年(大正10年)3月末、29歳の時、大阪毎日新聞海外視察員として中国に長期に出かけている。
  1914年第一次世界大戦、1915年日本は対中国21箇条の要求を突きつけ、1919年5月4日学生による五四運動による反日運動が起き、次第に全国に広がっていった。そして芥川がまだ中国にいた1921年7月に、上海で密かに中国共産党が成立している。芥川が来た頃の上海は、反日運動と、労働運動が激しくなりつつある時代で、治安は決して良くはなかった。
  芥川は、上海到着後乾性肋膜炎に罹り、約三週間、上海の里見病院に入院する。その後、上海、江南、長江、櫨山に至り、武漢、洞庭湖から長沙、北京、朝鮮を経て、7月末に帰国している。帰国後、8月17日より、大阪毎日新聞に、まずは「上海游記」を掲載する(9月12日完結)。翌大正11年、30歳の龍之介は、1月1日から、同新聞に、「江南游記」を掲載し、2月3日に完結している。この「江南游記」では、杭州の西湖については、上海から杭州に行くまでの車中の情景、杭州の一夜(上・中・下)、そして西湖の景色(一)~(四)で纏めている。
  
  僕が、中国四大美人の一人である西施という名前を見たのは、高校生の時だった。芭蕉が、『奥の細道』の道中、象潟で詠んだ、【象潟や 雨に西施が ねぶの花】という俳句を教科書で見た時、西施って何、何故ここに西施なのと、思ったのだ。象潟は、太平洋側の松島に対する日本海の名勝であった。その美しさを、美人にたとえ、松島は笑顔の明るい美人、それに対し、象潟は、憂いを含むしっとりとした美人と表現したと、その後見たあんちょこに書いてあった。実は、その時に初めて僕は、西施と言う美人を知ったのだ。
  中国四大美人と言えば、西施のほかに、貂禅(閉月美人)、王昭君(落雁美人)、そして楊貴妃(羞花美人)がいる。 西施は、春秋時代と言うから、紀元前5世頃、呉越が争う中、越王から呉王に献上された人である。魚が泳ぎを忘れるほどの美しさから、「沈魚美人」と呼ばれる。西施の使命は、呉王夫差に政治を忘れさせ、莫大な浪費をさせるためであるから、当然に、美人でなければならないが、男の気をそそるには、やはり、憂いを含むしっとりした雰囲気をも必要であったのだろう。
  余計なことだが、美人と言えども、欠点はあるもので、わが愛する西施は、大根足である為、彼女のスカートは丈が長かったと言われている。楊貴妃は腋臭であるため、一日に何回も風呂に入っていたし、王昭君は撫で肩、貂禅は耳がとても小さく、いつも大きなイアリングをつけていた、と言う話もあるようだ。
  その西施(西子)と西湖との関係を探してみた。まずは、西湖に蘇堤を造った蘇東坡(蘇軾)の【湖上に飲む。始め晴れ、のち雨】の後半で、「西湖をとりて西子に比べんとすれば、淡粧、濃抹、すべてあいよろし」(西湖の美しさを傾国の美女西施に比べてみよう。薄化粧しても、厚化粧にしても西施は美しかったと言うが、西湖も晴れの日も、雨の日も、私にのびのびとした気分を与えてくれる)という七言絶句を見つけた。
  もうひとつは、蘇東坡(蘇軾)の前記の七言絶句を受けて、やはり同時代の陸游が詠んだ【湖中微雨、戯れに作る】の後半で、「言うなかれ老子一人の振り向く無しと、なお得たり西施が淡粧をなせるを」(歳をとると誰も相手にしてくれない、などと言ってはいけない。薄化粧をした西施のように、西湖が慰めてくれたよ)という七言絶句も見つけたのだ。
  この二作品を読むや、僕は、意気揚々と、西湖への旅に出かけた。

  
  芥川は、上海から杭州までは,病み上がりの身を、一等のコパートメントに乗り、鉄道で出かけている。正確にはわからないが、少なくとも6,7時間は掛かったのだろう。午後7時頃に杭州の駅に到着し、早速税関による荷物検査がある。中国であって中国でないという当時の上海がおかれた国際情勢が、ここからも読み取れる。
  一方、僕は、スーパーモダニズムの駅舎である上海南駅を9:30発の和階号動車組列車で出発し、11:15に杭州に到着した。途中、大規模な高架橋の工事が進められており、何の工事かをたずねると、上海からのリニア鉄道の工事だという。完成すれば、約30分で上海から杭州に着くそうだ。杭州駅は相変わらずの賑わいである。もちろん税関の検査などは、今は無いが、タクシー乗り場は、人で溢れている。しかし、このタクシー乗り場に入ってくるタクシーは、僅かである。一体何時間待てばよいのか。迷うことなくバス乗り場に向かう。ホテルに近いバス停の名前を聞き、その路線バスに乗り込む。幸いに乗客は少なく、言われたバス停で下り、宿泊先のホテルへは、荷物を引っ張って向かう。
  芥川は、税関検査が終わると、駅前に待機する大勢の客引き(芥川は“宿引き”と書いている)に迎えられる。宿泊する新新旅館の客引きを探すのに時間がかかり、やっと駅から人力車に乗り、城内の狭く、かつ真っ暗な凸凹道を走り始める。「これが城外の町、突き当りが西湖ですよ」と言う案内人の声に前方を眺めるが、闇夜が見えるだけであったが、しばらくすると、薄明るい水面が現れてきた。茫々と煙った水の上には雲の裂けた中空から、幅の狭い月光が流れている。その水を斜めに横切ったのは、蘇堤か白堤に違いないが、銀と黒に輝く光景を堪能している。しかし、次第にお腹も空いてきて、不機嫌になっていくが、旅館らしきものは一向に見えてこない。
  新新旅館は名前の通り、西洋風のホテルである。しかし“東洋人”と見くびったのか、と憤るほど、坐ったまま西湖の見える部屋(レイクビュー)でなかったことや、その部屋の狭さにも不満を持ったようだ。取り合えず、食事を早速注文したのだが、食堂はもう締まったので、西洋料理は出来無いと言われ、已むを得ず頼んだ中華料理も、食い残りものを集め、それらしく見せる料理だと言われる「全家宝」ではないかと疑うのである。いずれにしても上海に来て早々病気になり、その上、杭州初日目の間の悪さに、些か拗ねたのか、この後の旅では、芥川は、かなり厳しい評価をしているように思える。
  
  
  僕は昼食を軽く済まして、まずは西湖あたりをうろつく事とした。その移動方法を考えたのだが、結局、近くの貸自転車の事務所に行き、200元の保証金と、100元の前払い使用料を支払い、プリペイドカードを購入した。このカードでバスも乗れるそうだ。自転車は1時間以上連続して乗っていると有料になる。しかし、西湖周辺に沢山ある専用の駐輪場に、カードでチェックして自転車を1時間未満に返せば、何回繰り返し借りても、料金は掛からないのである。結局僕は2日間、何回も自転車を換えながら、西湖の周り約15キロを回ったのだが、駅までの往復の交通費以外は、掛からなかった。
  まず僕は、自転車で、芥川が泊まった新新飯店(彼は新新旅館と言っているが)に向かうことにした。ホテルから西に向かい、西湖に突き当る手前を右手にとり、北山路を走る。この道路沿いは、三評西湖十景のひとつ【北街夢尋】である。北は、山側となり、南は、西湖を白堤で仕切った北里湖に面している。霞が掛かっているのか、白堤は鈍色に輝き、セピア色の世界である。そこから近くの山側に、1920年代の代表的な中西様式の建築である 「抱青別墅」(北山街38~40号)がある。更に西に向かうと、クラッシカルな3棟の洋館が見えてきた。新新飯店である。昼間は交通量が多いため、写真を撮るのを諦め、暫し、芥川のここでの行動を想像していたのだ。シャングリラホテルの方向に向かおうとし、少し力を入れてペダルを踏んだら、自転車が空回りしてしまうのである。結局、自転車を引きながら岳廟前まで歩くこととなった。ついでに、岳廟を覗いたが、特に興味をそそるものはなかったが、ただ岳飛の政敵の秦檜らに対して、今も延々と続く、中国人の憎悪の深さと激しさには、正直驚きである。

  岳廟前の専用駐輪場で、自転車を乗り換えた。この後、北山路に接面するシャングリラホテルの前あたりから白堤に入り、西冷橋の手前右手に、唐代に銭塘の名妓と言われた、蘇小小の、土饅頭に漆喰をかけた墓がある。 そして西冷橋を渡った左手に、あの「秋風秋雨愁殺人」の詞と共に、革命に殉じた鑑湖・秋瑾女史の、右手で刀を持った立像がある。死んだら、西湖の見える場所に墓を建てて欲しいと言う 秋瑾女史の意志に基づき、友人が建てたと言う話だ。僕は、秋瑾さんのこの凛々しい立像がとても好きだ。
  芥川は、蘇小小の土饅頭に漆喰をかけた墓が、荒れ放題に荒らされているのを、がっかりしてみている。おまけに、その前にある西冷橋の上で、中学生が2,3人反日の歌を歌っているのを聞き、慌てふためいて、橋を挟んだ左手にある秋瑾女史の墓を一見して早々に舟に戻っている。

  僕は、再び新新飯店近くに戻り、西湖新十景のひとつ【宝石流霞】である宝石山に登ることにした。新新飯店の裏手の坂道を自転車を漕ぎながら走っていると、雨粒が落ちてきた。麓の石段の手前で、自転車を置き、石段を上り始めた。小糠雨に降られながら石段を登って行くと、両側の竹やぶの若葉は次第にしっとりと艶かしくなっていく。石段を上がるにつれ、西湖が樹々の間から見え隠れしてくる。時々立ち止まり、西湖を眺めていると、西施の声が何処からか聞こえてくるような錯覚に陥っていく。雨が止んだ山上で、まずは【宝石流霞】の石碑を、そしてその向こうに、保俶塔(1933年再建)がその細身の姿を誇示するかのように、婉然と建っているのを見つける。 宝石山から西湖を望むと、紅を深めて落日が消えた後も、薄絹で覆われたような薄明かりの中に、白堤が見え、断橋も錦帯橋も霞んで見える。その遥か先には、幽かに雷峰塔の輪郭が見える。やがて消えゆく様を、身を清めるような喜びを感じながら眺めることができる、まさに春の夕暮れの、その瞬間であった 。

  僕は、西湖に行けば、白堤にある老舗レストランの楼外楼での食事を、いつもの楽しみにしている。込み合うシーズンでもあるので、急いで下山し、向かうこととした。北山路を東に向かい、白堤に入り、断橋を渡り、錦帯橋を渡る頃、先ほどまでいた宝石山が、ライトアップされていることに気がつく。このあたりは【平湖秋月】と言われる西湖十景のひとつであるが、如何せん、今は、時が春である。白堤に立ち、見渡せば、西湖の周りは、順次灯りで浮き上がっていく。その状況を写真に撮りながら、他方では、食べることに卑しい僕は、楼外楼の席の確保を心配していたのだ。予想通り、楼外楼の前はごった返していた。2階のテラスに席が確保できるという案内に従い、2階に上がる。既に店内では、賑やかな宴会が始まっていた。
  芥川は、舟で楼外楼に来て、店の前の槐の下で、昼食をとっている。
僕は、早速、菜単を見て注文する。冷菜はもち米を詰め蒸した甘いレンコンの【西湖蜜藕】、豚肉料理は蘇東坡が愛した【東坡肉】、スープは【宋嫂魚羹】、そして西湖名物、西湖で取れる淡水蝦と銘茶龍仁茶を炒めた【龍井蝦仁】、今が旬の【雪菜春筍】、食後のデザートは【東坡酥】と言う甘いお菓子、そして老酒は、少し甘口か、ここの料理に合う特注【宋嫂特醸】である。
 時は今まさに【春宵一刻値千金】、何となく、そわそわと、そして生き生きと感じられる頃である。老酒を、飲みながら、わが西施のお出ましを待つばかりではあったのだが。

             春の夜や 西施微笑む たまゆらに
  
  芥川は、翌日、ホテルの前の桟橋から画舫に乗り、西湖の見学に出かけている。当時の湖畔の道路事情や、乗り物の状況から見て、ほとんどが舟での見学であった。画舫とは、美しく飾った遊覧舟と言うことになるが、芥川は、白木綿の日除けを張り、真鍮の手すりがついた、平凡極まりない小舟だと言っている。
  西湖の水位はとても浅く、放っておくと干上ってしまうようで、これまでに幾度も水利工事などがなされてきた。芥川は、まずは白楽天が作った白堤の錦帯橋をくぐり、進路を右にとり、弧山に着く。西湖十景の【平湖秋月】に到着したのだが、僕と同じく、晩春の頃では致し方がないと諦める。弧山は、大きいだけに俗悪な門や白壁が続いているだけだと酷評している。
  岳廟に向かう舟の中で、芥川は、西湖を、春寒をおそれる中国美人に例え、いたるところで見れる赤と鼠の二色の俗悪恐るべき煉瓦建てのために、西湖美人は傷つき、更に江南一体の景色はことごとく破壊されていると嘆くのである。蘇堤に架かる跨虹橋を渡り、やはり西湖十景のひとつである【曲院風荷】に入ると、煉瓦建がなく、白壁を囲んだ柳に、桃の花が咲き、青々と苔蒸す玉帯橋が水面にぼんやり映る景色には満足している。
  
  
  冬から解放された【春の朝】の気分は、格別のものがあろう。見慣れ慎ましい日々にも、何やらささやかな秘めたる喜びを感ずるものだ。ましてや、見知らぬ春の朝の西湖には、西施との出会いへの期待に、興奮したのか、明けようとして、未だ暗い、暁闇に、僕は目が覚めてしまった。  
  【春眠暁を覚えず】、妻問婚時代は、暁(鶏鳴)とともに男が女のもとを去った後朝(きぬぎぬ)の別れがあった。もちろんこの風習などがない今は、暁と曙の区別する必要がなくなったといえよう。
   
             春曙 夢にうつつの 目覚めかな

 目は覚めたものの、ベットでうつらうつらしていたために、気がついた時には、外は朧げにも風景を見ることができる曙の頃となっていた。急いで起き上がり、ホテルの前の駐輪場で、良さそうな自転車を選び、西湖に向かった。昨日交通の激しかったために、写真を撮ることの出来なかった「抱青別墅」の写真を写した。新新飯店でも、車の走っていない北山路に出て写真を撮り、その後、振り返って湖面越しに、早朝の白堤、断橋なども写した。そして蘇堤に向かった。
  蘇堤は、西湖十景の【蘇堤春暁】である。暁を楽しむには時間が少し遅すぎたようであるが、早朝の散歩を楽しむ人、走る人、朝からおしゃべりを楽しむ人などにも出会うことが出来る。蘇堤は、白や紅色、そして八重などの桃の花が満開であった。左手には西湖、右手には西里湖があり、観光舟なのだろうか,漁師舟なのか、早朝から多くの舟が蘇堤にある望山橋などの橋下を通過して行き来している。望山橋の左手先方に【三潭印月】が見える。その橋桁近くに、隋の煬帝が愛したと言う「琼花」を見つけた。この花を見たいがために、煬帝は京杭大運河を築造させたとまで言われるほどの花である。現在は揚州の市の花となっているそうだ。斜め左前方に雷峰塔の姿がはっきりと見えてきた。西湖十景の【雷峰夕照】である。17世紀の初頭、この西湖も日本の倭寇に攻められたと、案内書には書いてある。当時この雷峰塔が見張台の代わりをしていたので、倭寇はこの塔を破壊しようと、火をかけたため、赤レンガ製造が始められる前に、この塔は赤レンガになったと言われている。実は、芥川が見た雷峰塔と、僕が見た雷峰塔とは別のものである。芥川が見たのは、1921年、その3年後の1924年に雷峰塔は倒壊している。2000年に今の雷峰塔が再建されているのだ。
  僕は雷峰塔を横目で見ながら、南山路を自転車で北上した。この一帯の湖畔には、柳が沢山植えられており、しだれ柳の新芽が、風にゆっくり揺れるのが、御簾のように見え、やがて西施が奥から現れるのではと、一瞬心をときめかせたのだ。この時間になると、湖畔沿いの公園は結構人が出ており、散策やダンス、健康運動などをグループに分かれて、楽しんでいる。水辺には渡り鳥なのか、水鳥が賑やかに泳いでいる。風に揺れる柳の新芽をかき分け、小鳥の賑やかな鳴き声を聞きながら、公園内を更に奥へと歩いて行くと、次第に清清しく、長閑な気分になっていくのである。まさに春爛漫である。地図で現在位置を探してみると、西湖の東岸にある公園で、西湖十景の【柳浪聞鶯】であった。
  公園の表側の道路沿いには、新しい感覚のレストランなどが並んでおり、夜などは結構賑やかな場所なのだろう。更に北上すると、その先に市街地のビルが見え始めてきた。三評西湖十景の【湖浜晴雨】涌金門の公園では、赤いユニホームを着て、小太鼓を体につけた女子団が厳しい練習をしているのを、休憩をしながら、ベンチに座り眺めることにした。ところが、早朝から激しい叱責が飛ぶ練習をボーット見ている自分が、何故かとても恥ずかしく感じてきたので、公園を早々に退出した。
  ホテルには午前9時半頃に戻ってきた。直接2階のレストランに行き、朝食をとることにした。適度な運動に、お腹も空き、久しぶりに旨い朝食をとることが出来た。

  白楽天が、3年の任期を終え長安に戻る時に詠んだ七言絶句【西湖留別】があるが、【処処、頭を廻らせば、ことごとく恋うるに堪えたり、就中、別れ難きは是れ湖辺】と、一番別れが辛いのは、西湖のほとりだと言っている。僅か2日間しか滞在しなかった僕でさえ、なぜか別れ難き思いに陥いっていくのである。

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